いいね! 第一回
「いいね!」 第一回
1 ホテルの宴会場を出ると、玄関から追い立てられるように、堀内哲夫は横づけされていたタクシーに乗り込んだ。しばらく前までこんな時は、黒塗りのハイヤーだったのに、今どきはタクシーだ。昔は、仕事の時だって、ハイヤーに社旗をはためかせてお得意回りをしていたのが、いつしかタクシーになり、近頃は、電車で行けるところは電車で回れと変わってきたのだから、当然のことだろう。 車に大きな花束が差し入れられ、タクシー券が渡される。ドアが閉まる。 「部長、永いことお疲れさまでした」 「どうぞ、お元気で」 「ぜひまた、お顔を出してください」 口々に声をかけられ、頭を下げられた。とんでもない、また会社を訪ねたりしたら、煙たがられるに決まっている。それでも、急いでタクシーの窓を開け「いや、ありがとう、ありがとう」と手を振った。 運転手に「三鷹までやってくれ、上連雀だ」と告げ、花束をシートの脇に置いた。強い花の香りに胸がむかつく。ビールを次々注がれ、そのたびに口をつけていたせいもあるだろう。 運転手が「お客さん、何かのお祝いだったんですか」と気さくに話しかけてくる。 「定年送別会だよ」と、ぶすっと答える。 「もう、定年ですか。お見かけしたところ、まだお若いのに」 「今月、六十歳の誕生日がきた。還暦のジジイだよ」 「それは、それは」 「あっという間だったな。こんな日が来るなんて思いもしないで、働き通した」 「お疲れさまでした。無事勤められて、おめでとうございます」 「めでたくなんかないよ。送別会も見送りも、すべて追い出しの儀式だ。みんな、やれやれうるさい上司がいなくなったと、腹の中で喜んでいるよ」 さらに不機嫌に言い募ると、運転手は口をつぐんだ。 今までは送る側だったが、とうとう送られる日が来たのだ。タクシーがスピードを増し、部下たちの姿が見えなくなると、堀内は窓を開けたまま、ふーっと大きな息を吐いてシートに腰を沈めた。 ホテルは会社の近くだったから、見慣れた街の景色が、みるみる車窓を流れていく。あの店の蕎麦はうまかったな、この店では遅くまでよく飲んだなと、一軒一軒確かめる。もうこの辺りに来ることもないだろうと、いつになくセンチメンタルな気分になった。 堀内は、これでいよいよ自分の仕事人生も終わった、と思う。大学の経済学部を卒業し、広告会社に就職して、三十八年。営業畑でがむしゃらに働き、バブル期の後の長い低迷期も、なんとか乗り切って、順調に昇進した。本来ならば役員になって、ハイヤーで送迎される日々が約束されていたはずだ。 だが堀内に目をかけてくれていた社長が思いがけなく脳梗塞で倒れ、そういう未来はすっぱり断たれた。社内の閑職に就くとか、子会社の役員になるとか、定年後のそんな話もあったが、堀内は潔く断った。男は、引き際が美しくないといけない。 自宅では、妻のしのぶや、もう結婚して独立した息子と娘と、三人の孫たちがそろって帰りを待っていてくれた。タクシーを降りて、花束を妻に渡すと、孫たちが二人に細かく切った紙の花吹雪を浴びせる。テーブルには、ワインやジュースが並び、乾杯の用意が整っていた。 家族が「あなた、ご苦労様でした」、「親父よくやったよ」と、ねぎらいの言葉をかけてくれる。自分の居場所は、今夜からここにしかないのだと思うと、解放感と同時に、言いようのない喪失感に襲われた。 送別会ではろくに食べていなかったから、腹がすいてくる。何も言わないのに、妻のほうから「お茶漬けでも召し上がる?」と声をかけてくれる。「うん」と言いながら、やっぱり永年連れ添った女房だと胸が詰まった。絵に描いたような定年送別会の一日が、そうして幕を閉じた。 翌朝は、寝たいだけ寝ようと思っていたのに、習慣とは恐ろしい。いつもと同じ時間に目が覚めたので、仕方なく起きてしまった。妻がふだんどおり、テーブルにご飯と味噌汁、干物、だし巻き、お浸しといった朝食と、朝刊を二紙用意してくれている。堀内はパジャマのままで、椅子に腰を下ろした。 今朝はこれからのことを妻とゆっくり話し合おう。今までは仕事、仕事でほとんど家庭を気遣ったことがない。退職金は、まず、妻のために使おう。思い切って海外旅行でもするか、船旅というのもいい、きっと妻は大喜びするだろう。堀内はそんな思いで、箸をとった。 「今日はどうなさるの?」 「どうって、まだ定年初日じゃないか。特に決めてはいないが」 「私、水曜日はいつも児童館のボランティアに行っているの。もう、出かける時間だわ」 「えっ、俺の昼飯はどうするんだ?」堀内は、あわてて妻の顔を見た。 「あら、いつもは会社の近くで外食していらしたんでしょ」 「それはそうだが」と、口ごもる。 「ここだって、駅まで出れば、いろいろなお店がある。あなたの好きなお蕎麦屋さんだって、何軒もあるわ。食べ歩きでもなさったら」 「おまえは、いつ帰るんだ?」と、堀内は畳みかけた。 「もちろん夕飯までには戻ります」 そう言うと、妻は早々に席を立った。化粧もすんで、外出着だ。ゆっくり話をする暇もなく、バッグを提げて出て行った。 堀内は、あっけにとられた。その日ばかりではなかった。翌日も、その翌日も、妻は朝食と夕食は、今までどおり用意してくれたが、その日の予定というものが詰まっていて、日中はほとんど家にいない。帰ってくると、忙がしげに食事の支度をしたり、掃除、洗濯などと、くるくる家事をこなしたりしている。 会社で仕事に没頭していた間に、妻は妻で、ボランティアだ、料理教室のアシスタントだ、スポーツクラブだ、と、昼間の時間は暇なくスケジューリングしていたので、割り込むすきがないのだ。 それでもと、堀内は、寝る前に、妻に「話がある」と切り出した。妻はドレッサーの前で、顔にクリームを塗って、マッサージをしているところだった。つるつるした顔で振り向く。そんなかっこうをしていても、しわもシミも目立たず、髪は染めているのか白髪も見当たらず、いい年のとり方をしている。還暦前だというのに、まだ捨てたもんじゃないなと、見直した。 早速、海外旅行の話を持ち出した。旅行会社の店頭で集めた海外クルーズのカラフルなパンフレットも並べる。豪華な客船や、パーティーの模様、世界各地の観光写真などが、あふれている。女なら、誰でも一度は行ってみたいと思うに違いない。 それを見た妻の反応は、意外だった。 「いっしょに行かないといけないかしら? 私、毎週、料理教室のアシスタントをしているし、ボランティアのほうも、日程が決められているの。どちらも頼りにされているから、自分勝手に長い休みはとれないわ。あなたは時間がたっぷりあるんだから、気ままな一人旅でもなさったら」と、かえって困惑したように言う。堀内は、妻が大喜びするとばかり思っていたから、拍子抜けした。 永いことほうっておいたから、むくれているのかもしれない。「おまえを連れて行きたいんだ。おまえと行くから意味があるんじゃないか」と、さらに言い募ると「そうね、先のことは決められないけれど、お休みがとれたら船旅もいいわね」と、まったくそっけない。そんな妻の手を引っ張って、布団に誘ってみたが、「今夜は疲れているの」と断られた。 さすがに堀内も腹が立って、自分の布団に入ると、妻に背を向けた。妻は顔の手入れを終えると、それでも「ごめんなさい」と小さな声で一言謝って、部屋の電気を消した。堀内は思いがけない展開に、頭が冴えて眠れない。何度も寝返りを打った。 翌日も、妻が外出した後、庭に出た。一本だけある辛夷が白い花をつけ、沈丁花が香っている。早春ののどかな庭だが、そののどかさが気に障った。俺にはもう春など来ない。 今頃、会社ではみんな忙しくしているのだろう。自分だけ、こうして無為に年をとっていくのか、第二の人生なんてどこにあるんだと、うつうつとしてくる。かっこよく、いくつかの仕事の話も断って会社を辞めてしまったが、閑職でも何でも、受ければよかったかもしれないと、じくじく後悔した。 庭の植物の水やりは、今までも朝の日課にしてきたが、雑草が伸びてきているのでそろそろ抜かなくてはいけない。休日ならともかく平日に草むしりするなんて、いかにも年寄りくさい気がして、一度はめかけた軍手をはずした。 書斎には、定年後、読もうと思っていた本が山積しているし、古い映画を録画しておいたDVDもある。最近は聴くこともないCDもある。それもこれも、まだ昼日中から一人楽しむ気にはなれなかった。 妻は、いつもそれなりの理由を告げて外出しているが、もしかして男でもいるのではないだろうか。ありえないことではない。最近は、なんとなく自分と目を合わせないようにしている。時々は帰りが遅いこともある。夜の誘いも断わられた。そんなこのところの妻の言動を考えると、自分の妻に限ってと、今までは思いもしなかった疑惑が、黒い雲のように湧き上がってきた。 2 その時、家の中の電話が鳴った、誰だろう、もしかして妻の男かもしれないと、急いで家に上がって受話器を取る。電話は、会社の二年先輩、布施からだった。OB会の誘いだ。自慢の低い声で「定年を待っていたよ。暇を持て余しているだろう。俺達の仲間入りをしないか」と言う。お見通しだ。気の合う会社の卒業生仲間十人くらいで、定期的に飲み会をやっているそうだ。堀内は、待っていましたとばかり承諾した。 指定された新宿の居酒屋へ入っていくと、小上がりにもう数人が集まって、飲み始めている。元会社のメンバーは、みんな懐かしい同じ匂いがする。誰もがそれぞれに年をとっていた。現役時代は毎日のように顔を合わせていた連中だったから、痛々しい気もしたが、話し始めるとそんな違和感は、たちまち消滅した。 なかでは、堀内が一番年下だったから、会社の近況をあれこれ訊かれた。こんな機構改革があった、思いがけない人事異動があった、現役社員や大先輩たちの訃報などを話すと、みんな身を乗り出して聞いている。スーツ姿で、会議室で激論を交わしていた頃のイメージがダブってくる。やっぱり、永年、身も心も賭して働いてきた会社は、退社して何年たっても気になるのだろう。 今度は、堀内が、先輩達の定年後の身の振り方を訊く番になった。布施は、実家の書店の立て直しに、尽力しているという。シルバー人材センターに登録して老人施設の手伝いをしている人、マンションの理事長を引き受けて綿密な防災対策を立てている人、自分史を書き始めた人など、それぞれ第二の人生に軟着陸し、その人なりに歩き始めている先輩ばかりだった。誰一人、会社に未練がある様子はない。堀内は、なんだか自分が女々しく思えてきた。 でも夜の九時を過ぎると、みんなそわそわ腰を浮かし、帰り支度を始める。一番の年長者は、堀内と一回りも年が違うし、自宅が遠い人もいる。昔は終電まで飲み続けたり、二次会、三次会へと繰り出したりした連中だが、年には勝てないのだろう。 「どうだ、もう一軒行かないか。近くになじみのバーがある」と、布施が声をかけてきた。堀内は二つ返事で誘いに乗る。そのバーは、雑居ビルの三階にあるカウンターだけの小さな店で、マスターしかいない。殺風景だが、男同士、酒を飲みながら語り合うには格好の場所だった。堀内は「みんないいな。俺は時間をほとほと持て余しているよ」と、酔う前から愚痴が出た。 布施は「小さな書店ぐらいすぐなんとかなると思ったが、想像以上の出版不況で、簡単にはいかない。四苦八苦しているよ」と、ちょっと弱音を吐く。 「それでもいいよ、定年後もやらなければならない仕事があるのは」 堀内は、うらやましかった。 「何か趣味でもないのか?」と、布施が訊く。堀内は仕事が趣味のようなものだったから、何も思い当たらない。休日は、一日テレビでスポーツ番組など見て過ごしていたし、ゴルフは営業目的でやっていたから、今さらする気もしない。 「ところで俺、あるSNSに入っているんだ」と、布施が話題を変えた。「実はおまえが定年になったことも、会社の若いやつの投稿で知ったんだ」と言う。 「確かに、いやに早耳だと思っていたんだ。でもSNSって最近よく耳にするけど、個人情報が流出したりして危険じゃないのか?」と、堀内が眉をひそめると、「心配していたら何も始められないよ。俺が参加しているのは、実名で登録し、『友達』をつくって情報交換するウエブサービスだから、まあまあ信頼できる。投稿を見る人の制限もできる。そうだ、おまえも始めてみたらどうだ。いい暇つぶしになるぞ」と肩をたたかれた。 布施は早速、スマートフォンを取り出して、自分の投稿を見せてくれる。よく立ち寄る小料理屋やバーの情報がほとんどで、店内や料理、ママがVサインしている写真などが、いろいろ載っている。店の宣伝になるからと、ママたちは喜んで協力してくれるのだそうだ。いかにも元広告マンで酒好き、女好きの布施らしい内容だった。 会社の若い連中はじめ、布施は、様々な分野にその「友達」が百人以上いて、毎日のように情報交換しているそうだ。 「スマホは俺、主に電話とメールとマップくらいしか使っていない。写真は撮ったことがない。調べ物は、パソコンのインターネットのほうが、字が大きくて見やすいし」 「じゃ、とりあえずは、パソコンとカメラで始めてみたらいい。すぐスマホにも移行できるよ」 堀内は、パソコンは仕事がら自由に使いこなせる。カメラは、大学時代、写真サークルに入っていたので、いちおうはわかる。古い一眼レフは処分してしまったので、最近はデジカメで旅行の記念写真や、孫の写真を撮るくらいで、すっかりご無沙汰だった。 堀内は、試しにそのSNSを始めてみようかという気になった。そうすれば、定年後の一つの世界が広がるかもしれない。何でもいいのだ。新しいことに手を出せば、このところのうつうつとした毎日の突破口が、開けるかもしれないと思った。 翌朝、早速、書斎のパソコンに向かって、SNSの登録をしてみた。そうしたら会社の若い連中が、何人も登録していることがわかる。布施のアドバイスに従って、顔見知り中心に、まず何人かへ「友達リクエスト」を出してみた。 自分の仕事をよく手伝ってくれたアルバイトのミチルからは、一番に「承認します」の返事が来た。「部長さんと『友達』になれるなんてうれしいな。美味しいお店を探しておきます。またごちそうしてくださいね。楽しみで~す♡」と、♡マークまでついている。 「あの子はよくレストランに連れて行ったよなあ」と思う。下心などなかったから、それ以上の関係にはならなかったが、またSNS「友達」になるのも、悪くないかもしれない。 ミチルの投稿を見ると、食事に行ったレストラン、カフェで食べたケーキ、買ったばかりのバッグの写真などが、次々載っている。新たに、俺のようなスポンサーを見つけたのだろうか、と気になった。 堀内がかわいがっていた営業マン、キムラからは「部長、引き続きご指導ください。心強いです」という、短いがうれしい返信があった。キムラは、常時スマホを持ち歩いているのだろう。「朝からA社を訪問、B社に回る」といった写真付きの業務報告のような投稿をしている。昼食をとった店まで載っている。自分が退社した後の会社の様子が、手に取るようにわかる。成績は上がっているのか、クライアントは増えたか、堀内はもっと詳しいコメントがほしいくらいだった。 仕事面では目立たなかったヤマザキからは「部長がSNSを始めるなんて、びっくりしました。どうぞよろしくお願いします」と、コメントは真面目だったが、彼の投稿を見ていくと、びっくりした。まめに、図鑑のような精緻な花や樹木、野鳥などの写真とコメントを載せている。いつ、こんな写真を撮っているのだろう。人って、会社で見ているだけでは、何もわからないものだな、と思った。 「友達」になった何人かの投稿を見て、堀内は自分も何か写真を撮って、投稿してみたくなった。天気もよかったし、デジカメ持参でぶらぶらと駅前に出て、まずオープンカフェでコーヒーをオーダーした。でも被写体としては、コーヒーでは平凡すぎる。その店のおすすめの「抹茶クリームフラペチーノ」なるドリンクに変更して、飲む前に何枚か写真を撮る。これならいけるかもしれない。飲み物はいやに甘ったるくて、半分くらい残してしまった。 隣の席を見ると、上品な老婦人がチワワを連れている。「写真を撮らせていただけますか?」と声をかけると、笑顔で応じてくれる。堀内は立ったり、腰をかがめたりしながら、何度もシャッターを切る。以前は、ほこりをかぶっていたデジカメが、その日から、堀内のかけがえのないパートナーになった。 家へ帰ると、撮った写真を早速パソコンに取り込んでみる。パソコンの画面で見ると、チワワの写真は、犬が動き回っていたので、すべてぶれていて使いものにならない。でも「抹茶クリームフラペチーノ」のほうはまあまあの仕上がりだ。グラスについている水滴に、キラリと光が当たっている一枚があった。堀内はその写真を選んで、短いコメントをつけ、初めて投稿してみた。 三十分もすると、もう反応があった。ミチルだ。SNSの決まり文句にもなっている「いいね!」マークが押され、「わーっ、おいしそう! 私も飲みたいな」とのコメント。思わず笑顔がこぼれる。ヤマザキも「いいね!」と、「僕もこれ大好きです」と、律儀にコメントをつけてくる。元部長としては「こいつら、仕事中にこんなことをしているのか」と、小言の一つも言いたくなるが、もう自分は部長ではない。いいじゃないか、このくらい、と思った。 布施も「いいね!」と、「この調子、この調子」というコメントをくれた。ほかの「友達」は、ほとんど「いいね!」マークだけだったが、こんな写真に続々反応が来るなんて信じられない。心が弾んできた。朝起きると、まずパソコンを立ち上げ、SNSの「友達」の投稿をチェックするのが、堀内の日課になった。 「定年直後は、これからどうなさるのかと心配したけれど、いい遊び場を見つけたみたいね」と、妻も喜んでくれている。夫にまといつかれなくなったので、内心ほっとしているのだろう。 妻はメカに弱い。自分ではパソコン操作はできないが、息子や娘が投稿している孫の写真や動画の載っている画面を示すと、目を細めて見入っている。「また届いたら私にも見せてね」と、催促するようになった。息子や娘たちも、わざわざ実家へ孫の顔を見せに行く手間が省けて、助かると言っている。だが外出の多い妻への疑惑は、相変わらず堀内の頭から離れなかった。 (次号に続く)