いいね! 第二回
「いいね!」 第二回
3 寝る前に、堀内はその日の締めくくりのパソコンチェックをするのだが、自分あてに「友達リクエスト」が、一通届いているのに気づいた。マツモトユリコという女性からだ。心当たりはなかった。「知らない人からの『友達リクエスト』には注意しろ。原則、断ったほうがいい」と、布施にも言われている。堀内はすぐ削除するつもりだったが、ユリコという名前がなんとなくひっかかる。ペンディングにしたまま、パソコンの電源を落とした。 翌日、朝食をとりながら、「マツモトユリコという名前に何か覚えはないか? 『友達リクエスト』が来ているんだ」と、妻にさりげなく訊いてみた。すると「忘れてしまったの? 私と同期入社の斉藤百合子さんじゃないの。結婚して松本と苗字が変わったのよ」と、すらすら答える。 堀内は、「そうか、あの百合子さんか。三人で食事したこともあったな。当然、結婚しているよな。でも、今頃、リクエストなんてどうしたんだろう?」と、その場を取りつくろう。「あなたの名前を見つけて、懐かしくなったじゃないの。年賀状のやりとりも、もうずっとしなくなっていたから」と、妻はのんきな返事をした。 独身時代、堀内は、新人で同期入社した、今の妻のしのぶと、百合子と、二人を二股かけて付き合っていた。しのぶは、楚々とした美人だったが、百合子は自由奔放な娘だった。結局、妻にするならしのぶのほうがいいと、しのぶと結婚した。百合子とも付き合っていたことは、今も妻には隠し通している。 「いいじゃないの、『友達』になっても。今、百合子さんがどうしていらっしゃるか、私も知りたいわ」と、当時の事情を知らない妻は、こだわりなく勧める。「そうだね、考えてみるよ」と、堀内は早々にその話を打ち切った。 その晩は、恒例のOB会があった。居酒屋の後、前回と同様、布施とバーに寄った。「SNSってけっこう面白いな。だんだん、はまってきたよ」と、まず報告する。「刺激になるから、ボケ防止にも役立つかもしれないな」などと冗談も交えた。 布施は「よかったな」と、相槌を打ったが、なんとなく浮かない顔をしている。「どうしたんだ?」と訊くと、「おまえも覚えていると思うけど、入社当時付き合っていたあの斉藤百合子から、俺に『友達リクエスト』が来たんだ」と打ち明ける。 布施が、興味本位でついリクエストを「承認」したら、毎日のようにメッセージが届くようになった。メッセージは、当事者しか読めない。ほかの人の目には触れないのだ。 付き合っていた頃、布施は、百合子から結婚を迫られたので、「まだ、誰とも結婚する気はない」と断ると、百合子は大泣きして会社を辞め、郷里の青森で見合い結婚した。 その夫に先立たれ、今は高齢の母親の介護をしている。何の楽しみもないから、気分転換に始めたSNSの「知り合いかも」の欄で布施の名前を見つけて、「友達リクエスト」をしてきたという。最近「どうしても会いたい」とメッセージを入れてくるので、「一度だけだ」と言って、新幹線で上京してきた百合子と会ったそうだ。 「それで、どうしたんだ」 堀内は身を乗り出した。 「今回、久し振りだから、銀座のレストランでフランス料理をごちそうした」 百合子は、やっぱり東京は素敵だ、料理もおいしいと、デザートまで残さず食べた。母親の介護の話も聞いてやった。母親といっても、亡くなった夫の母親で、姑だという。「それは大変だ」と同情し、土産の菓子まで持たせて、東京駅へ送っていった。 「それで百合子も気がすんだのか」 「いや、やさしくしたのが裏目に出たよ」 布施は、溜め息をついた。その日以来、毎日、百合子からSNSにメッセージが届く。また東京で暮らしたい。母親を施設に預けて、自分は東京で仕事を探す。布施には、時々会ってほしいと言ってきたそうだ。 「俺は、もう孫だっているんだぜ。かんべんしてほしいよ」と、疲れた顔をした。 布施は、店が忙しくてとてもそんな暇はないし、今さら付き合う気もない。お姑さんのそばにいて面倒をみてあげたほうがいい。寂しいなら、再婚でも考えたらどうかと、長いメッセージを返した後、百合子をSNSの友達リストから削除したそうだ。 「友達」から外れると、メッセージも送れないし、布施の投稿も見られない。連絡方法がなくなるのだ。百合子には気の毒だったが、布施にはそれで精いっぱいだったのだろう。 「おまえには、友達の承認には気をつけろと注意したのに、俺が失敗してしまった」と、布施は後味悪そうにウイスキーをあおった。 堀内は、当時、百合子が付き合っていたのは、自分だけではなかったのだと内心ほっとした。きっと布施に無視され、また「知り合いかも」欄で、自分を見つけ、「友達リクエスト」してきたにちがいない。次のターゲットにされたのだ。 今は妻のしのぶに関してだって、心配事があるのだ。ほかのもめごとは勘弁してほしい。すぐリクエストを削除しようと決めた。布施には、自分も百合子と付き合っていたこと、リクエストが来たことはあえて黙っていた。 十二時近くに帰宅すると、妻がまだテーブルのところで、テレビもつけずに起きていた。思いつめたような顔で「お帰りを待っていたの。お話があります」と、堀内を見上げる。 百合子との過去がばれたか。それとも自分の不倫の告白でもしようというのか。いや、離婚話を持ち出すのかもしれない。定年離婚なんて、よくある話だ。堀内は動揺を隠せなかった。 「なんだ、改まって。今夜は遅いから話は明日にしないか」と、逃げ腰になる。妻は「今までなかなか言い出せなかったの。だから、今夜、思い切ってお話ししようって決めていたから」と、立ち上がらない。堀内はやむなく向かいに腰を下ろした。 妻は「私ね、乳がんの疑いがあったの」と、堀内が思ってもいなかった話を、静かに切り出した。 「市の、乳がん検診でそう診断されて、専門病院で検査を繰り返したの。もし乳がんだったら、おっぱいを切らなければならないし、がんが進行していれば死ぬかもしれないって、夜も眠れなかった。でもはっきりとした結果が出るまでは、あなたに心配をかけたくなかったから、黙っていたの」と言う。 堀内は、椅子を倒して立ち上がった。「それでどうだったんだ?」と、問いただす。顔が引きつった。 「検査が長引いたけれど、最終診断では良性の腫瘍。今日、お医者さまに、手術の必要はないし、もちろん命にも別条がないって言われたわ」と、いつになく晴れやかな顔で話を終えた。 「そうか、そうだったのか」 堀内は立ち上がった勢いで、きゃしゃな妻の体をぎゅっと抱きしめた。 「おっぱいがなくなっても、おまえさえ生きていてくれればそれでいい。でも乳がんでなくて、ほんとうによかった」 妻を抱く手にさらに力を込めた。 おっぱいのふくらみが、二つとも胸にやわらかくぶつかる。不覚にも涙がこぼれた。妻も泣いている。このところのいくつかの不審な言動も、乳がんの心配を隠していたためとわかれば、すべて納得がいく。そんな苦悩も知らず、冷たいと恨んだり、男ができたのかもしれないと疑ったりした自分が、とんでもない愚か者に思えた。 「海外旅行は、でもしばらく待ってね。通院で皆さんにずっとご迷惑をかけたから、その埋め合わせをしなくてはいけないの。そのうちきっと時間をつくるわ」 妻は堀内の胸の中でささやいた。 子供たちが結婚し、家を出た頃から、妻は、妻なりに、第二の人生を積み上げてきたのだろう。定年後は、妻を相手に、人生を気楽に楽しもうと考えていた自分の甘さに、堀内は今さらながら気づかされた。 翌日、堀内はまずパソコンを立ち上げ、百合子の「友達リクエスト」を一番に削除してから、朝食のテーブルについた。 「俺、本格的に写真に取り組んでみようと思う。カメラを買い替えてもいいかな」 「あなたは、会社にいらした頃は、仕事一筋。今は、SNS一筋。何かに夢中になると、他が見えなくなってしまうのね。十分、お仕事をしてきたのだから、これからは何でも好きなことをなさったら」 妻は笑いながら賛成してくれた。 出がけに「百合子さんとはその後どうなったの?」と訊く。「今は新しい友達がたくさんいるから、もういいよ」と、さりげなく答えておいた。今や「友達」は会社関連から、学生時代の友人たち、息子や娘、それにウエブ上で新たに知り合いになった人と、たちまち五十人を超えていた。 現役時代は、毎日、何十人もの人を相手に、丁々発止とやりとりしていたのだ。だが今は、相手は「友達」に替わったが、自分の見たこと、聞いたことを、受け止めてくれる人々がいる。張り合いが出てきた。投稿する内容によって、「いいね!」してくるメンバーは増えたり、減ったりするが、それはそれで手応えがあった。 堀内は、還暦を過ぎた男の被写体がいつまでもドリンクやペットでは情けないと、まずはヤマザキを目標に、植物観察をメインテーマにした。庭の牡丹が一輪だけ早々と花開いたので、早速、写真を投稿したら、続々「いいね!」が来た。快調な滑り出しだ。 でもうちの小さな庭だけでは、すぐネタが尽きる。ふだんは近所の住宅街をぶらぶらして、庭先や植え込みの写真を撮る。住人に「何をうろうろしているんだ?」と、不審がられて、警察を呼ばれかけたことさえあった。 三鷹の近くには、ちょっと足を延ばせば井の頭公園や、バスに乗れば神代植物公園といった大きな公園もある。植物写真の被写体には事欠かなかった。 そんな撮影がすむと、図書館へ回る。図書館では、分厚い植物図鑑と首っ引きで、撮ったものの名前を調べ、メモしてくる。書架の園芸雑誌も拾い読みする。さらにネット検索もして確認してから、写真を投稿する。コメントには、それらで得た植物のうんちくを書き添えるようにした。評判は悪くない。 昼間の時間は、そうして撮影、取材に費やすようになった。たまには東京近郊の公園や植物園の花情報が耳に入ると、電車に乗って見に行くこともある。テレビで近県の花畑や、珍しい植物の紹介があったりすると、居ても立ってもいられなくなって、クルマを飛ばすこともある。 はじめは、投稿のために出かけていたのだが、だんだん植物観察自体が面白くなってくる。植物は何万種もあるので、簡単にきわめられないのがいい。日に日に変化していくのも興味深い。妻にも「この頃、顔色がよくなったわね。会社へ行っていた時みたいにいきいきしているわ」と、言われた。 ヤマザキの投稿には、相変わらず珍しい植物が次々紹介されている。浦島太郎が釣り糸をたれている姿に似ているという「ウラシマソウ」や、地面に這いつくばっているような紫色の花「キランソウ」とか、今までは見たことも、聞いたこともない植物ばかりだ。お世辞にも「キレイ」とは言えないが、なかなか興味深い。 その気で探すと、雑木林や、公園で、自分でも見つけることができた。とりあえずはヤマザキが目標だが、追いつけ、追い越せだ。そのうち、あいつをギャフンと言わせるような写真を撮ってみたい。堀内はますますエスカレートしていった。 新緑の今は、若葉が輝いているし、花も毎日のように変わっていく。その日堀内は、朴の花を撮ろうと、カメラを持って住宅街にある目的の家へ向かった。朴の木は、大木で葉っぱも大きい。どこにでもあるというものではない。家からはちょっと歩かねばならないが、立派な屋敷の塀際に一本そびえているのをマークしていた。しばらく前、白い蕾がふくらみかけていたから、そろそろ花が開き始めているだろう。 堀内の横を、スーツ姿のサラリーマンが何人も駅に向かって足早にすれ違っていく。でも、もう心は波立たなかった。「俺の第二の人生は始まったばかりだけれど、まずまずだな」と、ひとりごちる。 目的の家の前で足をとめ、上を見上げたら、朴の花は予想どおり開花していた。だが、分厚い葉っぱが茂り合った隙間から、白い花びらが見えるだけで、なかなか全容をとらえることができない。塀に沿って歩きながら、撮影スポットを探した。近づくと、かえって葉っぱがじゃまになる。道路を隔てた向かいの家の玄関前から見上げたら、一輪だけだが花が丸ごとよく見えた。「ここに決めた」と、そこに腰をかがめ、上に向けカメラを構えて、思い切りズームする。さらに足を一歩前へ踏み出した。 撮影に集中するあまり、堀内は角を曲がって車が迫って来るのに、まったく気がつかなかった。急ブレーキの音を聞いたが、もう間に合わない。全身に強い衝撃を受け、路上に倒れる。カメラが飛ぶ。堀内の意識はそこで完全に途切れた。 (次号に続く)