「プールサイド」牧康子
十月中旬とはいえ、もう外の空気はひんやりとしている。玄関わきの花水木は葉が色づき、散り始めている。汀子は、朝九時前にスポーツバッグを肩に家を出た。 「おはようございます。早くからおでかけですね」 門の周囲の掃除をしていたお隣りの主婦に声をかけられた。 「ええ、寒くなりましたね」 汀子は定年後から、週三日ほど近所のスポーツクラブに通っていた。午前中は中高年の男女がほとんどだ。コロナ禍以前は、シニア達のかっこうの社交場だったが、以後は会話を禁じられているから、各々目礼するくらいで自分の運動に集中するしかなかった。 そのクラブは高層マンションの地階から三階までを占め、三階はゴルフレンジ、二階はマシンジムとスタジオ、一階は受付とロビー、地階はプールと浴室、ドライサウナになっている。新型コロナの緊急事態宣言が出た当時はここも休みになったが、解除になってからは、入館時には検温、アルコール消毒をし、マシンジムでもマスクをするなどのコロナ対策をして、再開になった。 汀子がクラブで過ごすのは、午前中の二時間くらいだったが、体を動かすのは気持ちがいいし、心身共にリフレッシュできる。ジムのランニングマシーンや、レッグプレスなどで足腰をきたえたあと、プールで泳ぐのだ。 プール室のドアを押すと、暖かく湿ったプール独特の匂いがする。音楽も流れている。25メートルの温水プールで、泳ぐ人用に二コース、歩く人用に一コースがある。水深は1メートル20㎝。プールサイドには、白いデッキチェアが三脚置かれている。ビルの地下だが,外光が入る設計になっているから、泳ぎ疲れたらチェアに体を横たえて、うとうとすることもあった。 プールでは、濡れるからマスクを外す。だから会話は特に禁止されている。いつもその時間、顔を合わせる数人とは軽く会釈を交わし、そのあと、「今日は水が冷たいですね」とか、「来月はもう立冬ですから」とか、ひと言、ふた言。でもそれ以上、話を続けることはなかった。 「おはようございます。先週はずっとお休みでしたね」 デッキチェアで、汀子はいつも見かける男に挨拶した。男は待っていたとばかり口を開いた。 「女房の三回忌だったんです。この前やっと親戚が集まって、法事をやったんです」 そんな重要な話が出るとは意外だった。 「まあ、たいへんでしたね」 「男というものはだらしない。女房がいなくなると家にいても何をしていいのかわからない。手持無沙汰で、いまは毎日ここのプールへ通うのだけが楽しみです」 「そうでしたか」 「乳がんだったんです…」 男は半身を起こすと、話を続けた。 その時「プールでの会話は慎んでください」と、「プールガード」から声がかかった。壁には大きな字で「プール内での会話禁止」のポスターが貼ってある。男は苦笑すると、勢いよくプールへ飛び込んだ。 プールでは、女性はキャップと水着だけ、男性もキャップと水着のパンツだけだ。親しくもないのに、毎回まさに裸同然のつきあいをしているという不思議な関係だ。その男も顔つきは七十代くらいに見えるが、わかるのはそれだけ。服を着ていないから、何もかもが想像つかない。ただプール室を出るとき、ドアのところで「プールガード」や中の会員に必ず一礼するので、「礼儀正しい人だ」とは思っていた。 プールから出ると、汀子はいつもどおり浴室で髪と体を洗い、デニムに着替えてクラブを後にした。近所のコンビニで牛乳を買っていると、プールの男が買い物をしていた。着慣れた作務衣姿に、白い鼻緒の草履が目につく。サンドイッチやサラダ、ミネラルウオータ―などをバスケットに入れていた。マスクをしているから顔はよくわからないが、スポーツバッグを下げているから、あの男に間違いないと、汀子は声をかけてみた。 「先ほどは失礼いたしました」 男はびっくりして顔を上げると、マスク姿の汀子がプールの女と分かって、恥ずかし気な表情になった。 「やあ、こちらこそ、つい長話をしてしまってご迷惑をかけました」 男は深々と頭を下げた。お互い裸に近い姿を見知っているのに、着衣だとかえって気恥ずかしい。他人行儀になる。汀子が思い切って口を切った。 「よろしかったら、先ほどのお話しの続きを伺わせてください」 「つまらないぐち話です」 男は汀子の突然の申し出に、とまどったように目をしばたいた。 「この先の銀行の隣に、椅子を並べただけの簡単なカフェがあります。コーヒーでも飲みませんか」 「いいですね。あそこならゆっくり話ができます」 男もその気になったらしい。二人ともスポーツバッグを肩にして、そのカフェへ向かった。汀子は、顔見知りとはいえ、名前も知らない男をカフェへ誘うなんて大胆なことをしてしまったと思ったが、プールサイドでの男の頼りなげな表情が見過ごせなかった。 週日の昼前でカフェは空いていた。二人はコロナ禍になってからのならわしで向かい合わず、並んで外を向いて腰を下ろした。レジで汀子がコーヒーを買ってくる。男は律儀に二人分の金を払ってくれた。 「私は、村上と申します」と、男は名乗った。 「長沢です。長沢汀子。汀の子と書きます」 汀子も続けた。 「外で女性とコーヒーを飲むなんて、久しぶりです」と、少し寛いできた。 「コロナ禍になってからは私もそうです」 村上はコーヒーをうまそうにごくりと飲むと、ぽつりぽつりと話を始めた。新宿で親の代から小さな寿司屋をやっていた。朝は河岸に買い出しに行き、夜は遅くまで寿司を握る毎日だったが、けっこう繁盛していた。妻も手伝っていた。だがあとを継ぐ者がいないので、自分が七十歳になったのを機に店をたたんで、こっちへ引越してきたそうだ。 「女房はうちの中のことをこまごまとやっていましたが、私は仕事もやめたし、暇を持て余してプールへ通い始めたんです」 「お子さんは」 「息子と娘がいますが、今は二人とも結婚して地方にいます。女房は子育て中も、そのあとも、かいがいしく家庭と店を切り盛りしていました。 風邪くらいはひきましたが、病気で寝込んだのを見たことがありません」 二年前、いつものように区民健康診査に二人で行った結果、妻だけに再検査の知らせが来た。ステージⅣの乳がんが見つかったという。すでに末期で手術もできない。苦しい抗がん剤や放射線治療のかいもなく、半年で亡くなったそうだ。 「いつもいっしょだったから、一人残されて茫然とするしかありませんでした」 「何と申し上げたらいいのか」 「そうとわかっていれば、もっといい思いをさせたかった。せめて温泉ぐらい連れていけばよかったなどと、後悔ばかりが先に立って。でも後の祭りです」 「それは心残りですね」 「女房はなにごとも夫唱婦随で、喧嘩ひとつしたことがありませんでした。五歳も年下だったのに、あっけなく先に逝くなんてあんまりだ。金魚三匹だけを残して」 男の目がうるんできた。 「最後に女房はかすれた声でこんなことをいうんです。『あなたの最期を看取れなくてごめんなさい。当然、私がお世話するとばかり思っていたのに』なんて。まもなく金魚も死にました」 「たまらないですね」 男は言葉が続かなかった。 「うちの両親はよく口喧嘩をしていたんですよ。でもやっぱり母のほうが先に亡くなりました」 「お宅もそうでしたか」 「母の臨終の時、そんな父が『おまえは一人では何もできないんだから、向こうでも俺を待っていなさい。俺もすぐ行くから』って、母の手を握って男泣きしたんです。その父も、母と約束したように、翌年亡くなりました。だから、村上さんのお気持ち、少しはわかるような気がします」 「男って、似たり寄ったりですな。あの世があるならば、私もそこでまた女房といっしょに暮らしたい。きっと待っていてくれると思います」 男は遠くに視線を泳がせた。 妻の三回忌の時、息子や娘は子供もいるので明るく振る舞っていたが、村上だけがまだ落ち込んでいた。娘が心配していっしょに住もうと言ってくれたが、男は妻と暮らした家を去りがたかった。食事は自分でも作れたが、一人分ではその気になれない。今は外ですませたり、コンビニで何か買って来たり、味気ないけれどそれにも慣れたそうだ。掃除や洗濯もなんとか自分でこなせるようになったので、できるうちは一人でやってみようと思っていると語った。 「若い方々とは、生活時間も食べるものも違いますから、親子だっていっしょに暮らすのは難しいかもしれませんね」 「気が付くと、ひとりごとを言っている」 「私でよかったら、いつでもコーヒーくらいごいっしょしますよ」 「ありがとうございます」 男はまた頭を下げた。 「私の女友達達も、もう何人かご主人を亡くしました。当座は嘆き悲しんで慰めようもなかったんですが、二、三年たつと見事に立ち直っています。『食事の支度をしなくてもいいし、面倒くさいことを言う人がいなくなって、かえって伸び伸びだわ』なんてさばさばしているんですよ」 「女性のほうがずっと強い。うちも私が先だったらなんの問題もなかった」 男はやっと寂しげな笑顔を見せた。 村上は話を変えた。 「ところで、あなたとよくいっしょにいらした女性、最近見かけませんね」 「あら、朱美さんをご存じだったんですか」 「気さくな人でね、会うと必ず挨拶をしてくれました。引っ越しでもされたんですか」 「いいえ、病気になって入院しています」 「ご病気だったんですか。活発な彼女しか知らなかったから信じられません」。 男は顔を曇らせ、口をつぐんだ。きっと病気で亡くなった妻を思い出したのだろう。 昼近くなるとカフェも混んでくる。年寄りが長居するような店ではなかった。「そろそろ行きましょうか」と汀子が言うと、村上もやっと立ち上がった。「今日はありがとうございました。お話ししたら少し気分が晴れました。じゃ、またプールで」と、汀子とは反対の駅方向へ足を向けた。 朱美は、汀子のクラブでの数少ない友達だった。たまたまロッカーが隣り合わせだったのがきっかけで話をするようになった。話すうち二人とも離婚歴があるのがわかっていっそう親しくなった。夫や子供、孫のいる主婦達とはなかなか話が合わない。彼女は美容院に勤めていたそうだが、六十歳で定年になってからは毎日のようにクラブ通いをしていた。ウエアも水着も、おしゃれなものをたくさん持っている。 「汀子さんはいつもスクール水着のようなのを着ているけれど、もっと楽しんだら」と言われて、慌ててデパートの水着売り場に走ったこともある。 時々ランチをいっしょにしたり、近所に新しい食べ物屋がオープンすると、連れ立って入ってみたりもした。汀子は自分の家に朱美を招いて、手料理を振る舞ったこともある。でも、朱美のマンションに行ったことはない。片付け下手で、とても家の中を他人には見せられないと言う。スポーツウエアの数からして多いのだから、きっと衣類が散乱しているのだろう。 朱美は、片付け同様、料理も苦手だと言っていた。離婚の原因がわかるような気がした。 汀子は料理は得意なほうだったが、離婚したのだから他人のことは言えない。幼馴染との結婚だったが、子供もできないうちに夫が年上の女に走ったのだ。若すぎた結婚が失敗の原因だと思っている。 朱美は、元夫の佐々木とまだ時々食事などしていた。「いい男だよ。弁護士なんだ。会うとごちそうしてくれる。今度いっしょに行こうよ」と、無理やり誘われたことがある。会ってみたら、物腰のやわらかな紳士だった。佐々木は再婚していたが、朱美を無下に遠ざけることはできなかったのだろう。離婚の原因は訊けなかったが、別れた妻にもやさしく接していた。汀子は、自分の場合は、夫の浮気が原因で離婚したので彼の顔も見たくなかったが、朱美達は古くからの友達のように付き合っているようだった。 コロナ禍で、外食もままならい朱美に、汀子は、度々「家へ来たら」とも言えず、宅配弁当を勧めてみた。「お隣の老夫婦が毎晩、頼んでいて、結構おいしくて安い」と言っていたと伝えた。 朱美は眼を輝かして「詳しく教えて」という。汀子はお隣に頼んでパンフレットやメニューを取り寄せてもらい、彼女に渡した。朱美はそれを食い入るように見つめて、「家まで、毎日お弁当を届けてくれるのね。便利そう。考えてみるわ」と真剣だった。 次にクラブで会った時、また朱美は「宅配弁当のパンフレット、手に入らないかしら」と訊いてくる。「この前、渡したじゃないの」と言うと、「そうだったかしら。覚えていないわ」と首をかしげる。「お家にあると思う、探してみて」と、汀子は念押しした。 そんなやり取りを繰り返しているうちに、汀子は最近朱美が何かおかしい。単なる物忘れではなく、病気かもしれないと思うようになった。クラブ仲間も、「あの人、ウエアを後ろ前に着ていた」とか、「レッスンの曜日を間違えて、スタジオにぼんやり立っていた」とか、そんなひそひそ話をし始めた。「この前、朱美さんたらプールでおしっこしちゃって、クラブの人に怒られていたわ」という話まで聞くと、汀子はそのまま朱美を見過ごすことができなくなった。 汀子は、名刺をもらっていた佐々木に電話をしてみた。 「そんなことになっているんですか。朱美からは最近何の連絡もなかったが、自分の病気に気付いていないんですね」と、驚いていた。 「朱美は身寄りもなくて、私だけが頼りなんです。離婚したとはいえ、そんな状態では見捨ててはおけません。とにかく病院に連れて行きます」と、電話を切った。 後日、佐々木から報告があった。 「朱美は検査の結果、若年性のアルツハイマー型認知症だと言われました」 「六十代でも認知症に」 「医者は、症状がかなり進行しているので、薬を使っても一人暮らしは危険だというのです。施設を紹介されたので、朱美をそこへ入所させ、マンションも引き払いました」 「まあ、そんなことになっていたんですか」汀子はびっくりした。 「早晩、私達のことも忘れてしまうでしょう」と、佐々木は声も沈痛だった。 「そんなふうに思っていらっしゃるのに、どうして離婚なさったんですか」と、汀子は訊かずにはいられなかった。 「私が離婚を切り出したんじゃない。朱美が『好きな人ができたから、別れたい』と言い出したんです。そうしたら、もう言うことはきかない。私はやむなく承知したんです。その男とも、何年も立たないうちに別れたそうですが」と打ち明けた。 汀子は二の句が継げなかった。 汀子は家に戻って、パソコンを開けると、仕事の連絡がたくさん入っていた。現役時代は印刷会社に勤めていたが、定年以降も家でできるパソコン入力などの仕事を頼まれる。暇つぶしにと引き受けていたから、村上やかつての朱美のように、クラブ通いを日課にするというわけにはいかなかった。数日後、汀子はやっと仕事が片付いてクラブへ行った。プール室を覗くと、村上がすぐ気づいてデッキチェアから立ち上がって来る。汀子は急に自分の水着姿が恥ずかしく思えたが、どうしようもなかった。 「しばらくいらっしゃらなかったから、どうなさったのかと」 「まだ家で仕事をしているんです。たてこんでしまって」 「仕事があるのはいい。しなければならないことがあるのはいい」 村上は大きくうなずいた。よく見ると、老人にしては肩幅が広く胸板も厚い。男も汀子の視線に気づいたらしく、「学生時代、水泳部にいたんです。でももう昔のようなパワーはありません」と、はにかむ。すぐプールへ入って、クロールで力強く何往復かすると、やっとデッキチェアに戻って来た。汀子の泳ぎに色々アドバイスをくれたりもした。 プールでいっしょに泳ぐのは楽しかったが、そのあと待ち合わせて、カフェで談笑するのも二人ともそれ以上の楽しみになってきた。村上は「汀子さんと話していると時間を忘れる。こんなこと、女房が亡くなってから初めてです」とも告げた。 ところが、汀子が仕事に追われてまたクラブをお休みすると、プールにもデッキチェアにも村上の姿は見当たらない。男は「プール通いだけが楽しみ」といっていたのに、どうしたのだろう。気になったが、一週間たっても、二週間たってもあらわれない。スマホの番号も訊いていなかったので、問い合わせようもなかった。 そうと約束したわけでもなかったし、もうあきらめて汀子はクラブに通っていた。ある朝、プール室のドアを開けると、以前と同じようにデッキチェアに村上がいた。ちょっと痩せたようにも見える。汀子はすぐそばに行った。 「久しぶりですね。ご病気にでもなったのかと心配していました」 「いろいろありましたが、話しているとまた注意される。あとで詳しく」 汀子はほっとしてプールへ入った。三十分を目安に、平泳ぎで、コースを往復していると、パソコン仕事の肩や背中の凝りが、水の中に溶けていくような気がした。ちらっとプールサイドを見上げると、村上はプールへは入らず、マットを敷いて柔軟体操に余念がなかった。 そのあと、汀子いつものように身仕舞を整えた後、クラブの受付でチェックアウトの手続きをしていると、村上がロビーにたたずんでいた。 「申し訳ありません。待っていてくださったのですね」 「女性は、男のようにすぐ外へは出られない。わかっています」 「いつものカフェへ行きますか」 「よかったら蕎麦でも食べに行きませんか。ちょっと歩くがうまい店がある」 汀子もちょうどお腹が空いていたので、喜んでうなずいた。蕎麦屋は、駅の向こうの細い道をいくつか曲がった目立たない一角にあった。 「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。奥のお席でよろしいですか」 村上と店主は、職人同士顔なじみらしい。店内は、テーブル席が五卓だけのこじんまりした店だった。振りの客は入りにくい雰囲気で、だからコロナ禍の影響も受けずに細々とでも続いているらしい。 二人は、向かい合わせに腰を下ろした。こんな渋い店には不似合いなアクリル板が間を隔てていたが、コロナ時代には仕方ないことだろう。 「おすすめは手打ちの茶蕎麦です。それでいいですか」 「はい、もちろん」 運ばれて来た蕎麦を一口食べて、汀子はびっくりした。 「こんなおいしいお蕎麦は初めてです」 「ここの茶蕎麦は宇治抹茶を入れた茶蕎麦に、さらに蕎麦の黒い殻も加えて田舎蕎麦の風味も出している。この店の名物です」村上も蕎麦を啜りながら続けた。 「ここには女房を連れてきたこともあるんです。女房も気に入ってくれてね。また連れて行ってと、何度もせがまれました」 「わかります。うちでは出せない味ですもの」 「なんだか汀子さんには、いつも女房の話ばかりして恐縮です。こんな話ができるのは、あなたしかいない」 「どうぞどうぞ、何でも伺います」 汀子は蕎麦を食べながら、心がほのぼのと温かくなってくるような気がした。村上夫妻は見合いだったというが、年を重ねても亡くなっても愛しく思える伴侶に巡り合えて、なんと幸せだったことか。こういう結婚もあるのだと、目が覚めるような思いだった。 自分は若い頃、結婚に失敗した。それ以来、恋人は何人かできたが、なかなかまた結婚しようという気にはなれなかった。男というものが、根本的に信じられなかったのだ。朱美も、結婚には失敗した口と言っていいだろう。 「ところで、私もとうとう娘のところの行くことになりました」 「えっ、急にどうして」 汀子は、せっかくまた村上に会えたのに、足元をすくわれたような思いだった。 「私、先月の初めにコロナに感染したんです」 「まあ」 「感染経路は不明だし、私もまさかとは思いました。体がだるく熱ぽかったので、検査を受けたら陽性でした。約半月自宅療養を強いられました。その後の後遺症で体力、気力をすっかり失い、最近になってようやく医者の処方の漢方薬で元気をとりもどした次第です。コロナを半分バカにしていましたが、その恐ろしさを実感しました」 「怖い病気ですよね」 「あなたは、カミュの『ペスト』を読まれたことがありますか」 「いいえ、でも今のコロナ禍と似た小説とか」 「私の学生時代は、サルトルやカミュがブームで、柄にもなく私はカミュに夢中でした。コロナになって自宅で臥せっていた時、『ペスト』を読み返してびっくりした。物語の舞台は、アルジェリアのオラン市で、外部と遮断された状況で必死に病気と闘う市民たちの姿が描かれている。あの小説はあくまでフィクションだが、そこに描かれていることは、コロナ禍で現在起きていることと同じだ。おそらく、コロナの結末もこの小説の通りになるだろうと、私は思っています」 「オラン市の場合、どんな結末になったんですか」 「主人公の医師リウ―のように、地道に戦い続ける人たちの努力によって、勝利の日を迎えます。コロナは、ペストのように一挙に消滅はしない。繰り返し波は来るでしょうが、日本でも医療従事者たちが日夜頑張っています。きっとそのうちコロナも下火になっていくでしょう」 「早くそうなるといいですね」 「ただ娘が心配して、喜寿近い私を一人で放っておけないというんです」 「当然でしょう」 「娘はつくば市に嫁いだんですが、戸建てで、部屋数もある。一緒に住もうと言うんです。今回ばかりは、私も気弱になっていやとはいえなかった」 「ではお目にかかれるのは、今日で最後なんですか」 汀子は、膝がしらががくがく震えてきた。 「受付で、もうクラブの退会手続きを済ませました」 「せっかくお知り合いになれたと思っていましたのに」 それ以上はショックで言葉が出なかった。 「私もあなたともう会えないと思うと、寂しい。でもつくばはそんなに遠くない。つくばエクスプレスなら東京から一時間とかからない。ぜひ遊びにきてください」 「ありがとうございます」 二人はスマホの番号を交換した。プールでは長い付き合いだったが、汀子がこうして村上と外で話すのはまだ数えるほどだ。若い頃のように、会いたいからといって、自分からでかけるのもはばかられた。 「最近は日の暮れるのが早くなりました。寒くなるとお体に触るといけません。そろそろ出ましょうか」と、汀子は自分を取り戻して、病気上がりの男を気遣った。 「そうですね。きっとまた」村上も名残惜しそうに、席を立った。 汀子は一人家へ向かいながら、もうプールで村上と会うことは二度とないのだと思った。デッキチェアにはこれからも知らない男や女が座るだろう。十歳も年上だったが、村上ほど心触れ合う人はもう現れないに違いないと、しみじみ寂しかった。 両親も亡くなったし、友達の何人かは早くもこの世を去った。朱美のように生きていても、もう昔の記憶をなくしつつある人もいる。そして心を寄せ始めた男とも、今日でお別れだ。汀子は年を重ねると、自分の心の中の寂しさの分量がますます増えてくるような気がした。 晩秋の風が、容赦なく足元の枯葉を舞い上げて行った。 年末は仕事がたてこんだが、年が明けるとすっかり暇になった。汀子は、クラブが開くのを待って、ただ黙々と通い続けていた。村上も朱美も去った後、コロナ禍では新しい友達もできなかったし、あえて作ろうとも思わなかった。 三月を過ぎると、コロナの感染者がめっきり減少してきた。四月中旬からは、新型コロナウイルス対策としてのマスク着用が「個人の判断」に委ねられるようになった。スーパーやカフェなどの施設側も、ソーシャルディスタンスや会話禁止などの規制を緩和しつつある。街に出ると、だんだんマスクを外している人が増えてきている。だが感染者数が減ったとはいえ、汀子はまだまだ安心はできなかった。 新型コロナ対策緩和が発表されて間もなく、汀子がスポーツクラブ行ってみると、クラブ内にべたべた貼られていた各種禁止事項のポスターが取り払われ、受付のビニールカーテンもなくなっていた。一つ置きに使用禁止になっていたロッカーも、全部使えるようになった。汀子も気持ちが多少ゆるんできたが、いつものようにマスクをかけ、入り口では手の消毒をし、今まで通り注意は続けていた。 その日も、汀子はマシンジムで運動をした後、水着に着替えてプール室のドアを押した。何気なくプールサイドに目をやると、村上が大きく手を振っている。汀子は「まさか」と、自分の目を疑って、おそるおそる男の方へ近づいた。 「汀子さん、お久し振りです」 「おはようございます。どうしてまた、このプールへ」 「やっぱり自宅へ戻りました。幸い家はまだそのままにしていたので」 「娘さんが許してくれたのですか」 「娘の心配はわかるが、どうにもこうにもつくばにはいたたまれなくなったんです」 「何かあったんですか」 「いや、何もない。何もないことが問題だったんです。娘の家に居ても、昼間は娘はパートに出ているし、孫達はもう中学生で勝手にやっている。一人で家にいても、私は何もすることがないんです。知り合いもいないし、ボケが進むだけだ。無性にここのプールで泳ぎたくなった。汀子さんにお会いしたくなったんです」 「またここで村上さんにお目にかかれるとは思ってもいませんでした」 「まず電話をしてからとも迷いましたが、それより直接プールへ行って汀子さんを驚かせたかったんです」 もう会えないとあきらめていた男の、懐かしい笑顔だった。胸が高鳴った。 汀子は、その時、自分がいっしょに年をとっていきたいのは、この村上しかいないと思った。村上は七十代半ば、自分は六十代半ばだ。二人に残された時間はもう少ししかないけれど、この人とならば手を取り合い、助け合いながら、坂道を下っていけそうな気がした。ただ、そんな自分の気持ちを男に伝えるのは今この場でなくてもいい。急がないほうがいい。 二人はデッキチェアに並んで腰をかけ、話しを続けた。話しは途切れない。「プールガード」からは、もう注意の声はかからなかった。 (完)