繭の部屋 第三回 [最終回]
「繭の部屋」 第三回
3 「足場解体前お客様アンケート」のお知らせが配られたのは、工事も終盤に当たる六月半ばであった。主にバルコニーの不具合箇所を調べて、申告するというものだった。 杳子は、バルコニーのドアストッパーのゴムキャップの劣化と、エアコンの室外機の傾斜を申告した。網戸の取り付けも依頼した。 予定日に、現場責任者と花子が訪ねてきた。工事関係者が、玄関から室内に入るのははじめてだ。現場責任者は、「田倉」と名乗った。いつもグレイの作業服を着て、管理室でパソコンで「お知らせ」を作ったり、各所と電話連絡をしている人だった。そこを通るたびに軽く会釈を返してくるので、顔見知りでもあった。 その日もいつものようにヘルメットをかぶり、作業服を着ていた。小柄だったが、その時はこのマンションの工事を背負っているといった責任感にあふれ、堂々としていた。 杳子の話を聞き終わると、ふたりは早速バルコニーへ出て、各所を点検してから、網戸の取り付けにかかった。花子は足場へまわって、器用な手つきで、さっさと網戸を取り付けた。むしろ男性の田倉の方が、補助にまわるほどであった。ふたりは網戸の取り付けが終わると、今度は、玄関からでなく足場を伝わって姿を消した。きびきびとした行動だった。 作業中、杳子は、花子に「こんな、高いところの作業なんて、怖くないんですか」と思わず声をかけると、花子は、「慣れていますから」と口数少なく答えた。現場で男性に混じって、ひけをとらず堂々と仕事をする姿に、杳子は現役時代の自分の姿を重ねてみた。花子がうらやましくさえ思えた。 田倉は、「ストッパーのゴムと室外機の“かいもの”は、自分がのちほど用意します」と言いおいていった。 その日の夕方、インターフォンではなく、玄関のチャイムが鳴ったので、田倉かと思って、杳子はドアのアイスコープをのぞいてみた。小さな丸いレンズいっぱいに、ボブのアーモンド形の目、丸い鼻、厚い唇が広がった。もう恐いとは思わなかった。杳子は、愛想よくドアを開けた。外国人特有の体臭がしたが、あまり気にならなかった。 ボブは、杳子に、唐突に赤いバラを一本、差し出した。 「今日デ、オシマイ。アリガト。サヨナラ」ボブは、知っている限りの日本語を並べて、別れを告げた。外国人だけあって、やることもなかなか気がきいている。 「こちらこそ、お世話になりました。どうもありがとう」といって、杳子は差し出されたボブの大きな手を両手で握った。「淋しくなるなあ」と思った。 翌日は、日曜日だった。杳子は好みの紅茶を切らしていたので、新宿の伊勢丹デパートに買いにでかけた。駅を出て、混雑した街を歩いていたら、新宿三丁目の信号の向こうに、あのボブの姿を見つけた。思わず声をかけようとしたが、よく見ると、ボブに似た別の黒人だった。黒人は、誰も同じように見えてしまう。 彼の隣にはやはり黒人の女性と、小さな子どもがいた。彼は笑顔で家族に何か話しかけていた。きっとボブにも、愛する家族がちゃんといて、どこかでこんなふうに過ごしているのかもしれない。 杳子は雑踏の中でその家族とすれちがった。街中では、だれも黒人を特別な人として、振り返る人はいなかった。 月曜日から、いよいよ足場はずしの作業がはじまった。買い物に行くついでに、マンションの外観を見上げると、その日は工事人の数も多く、シートはまたたくまにとりはずされた。ボブや花子はもういなかった。 足場のとりはずしは手早く、玄関前に用意されたトラックに流れ作業で、たたみこまれた。夕方には、南側と西側の窓からは、一本の足場も目に入らない。翌日には、西側、北側のシートと足場がとりはずされた。マンションは、洗浄も塗装もすっかり済んで、真新しい外観をとりもどした。七月のはじめであった。 長かった工事もほぼ終了になった。田倉から「近日中に伺う」という電話が入った。 当日、インターフォンから連絡が入って、玄関ドアを開けると、田倉は半袖ワイシャツとスラックスという会社員スタイルで立っていた。工事中のオーラは消えて、普通の人のいい会社員という感じだった。スニーカーでなく、革靴をバルコニーに運ぶと、慣れた手つきでゴムキャップを取替え、エアコンに“かいもの”をあてていった。 「ありがとうございました。皆さんは今お休みですか」 「いやもうそれぞれ次の現場に行っています。私も、これからそこの一つへ打ち合わせに行くところです」 田倉はそういうと、玄関から足早に去っていった。田倉の頭の中には、もう次のマンションのスケジュールが広がっているのだろう。 大掛かりで、期間も長かった大規模修繕工事もこうして終わりを告げた。翌朝、杳子が玄関の郵便受けへ朝刊を取りに行くと、前と同じように清掃員が一人で掃除をしていて、「お早うございます」の声をかけあった。 それまで、朝はボブや、花子や何人もの工事人から声がかかったことを思い出すと、杳子はなんだか、物足りない感じさえした。 以前と変わらぬ静かな朝だった。杳子は、ていねいに紅茶を淹れて、ゆっくり朝食をとった。つややかなさくらんぼを、いく粒かつまむ。もう、誰に見られることもない。待ち望んだ落ち着いた時間が、もどったのだ。テレビを消して、ひさしぶりに、ショパンのピアノ曲を流した。 杳子は、バルコニーにウッドデッキを敷き詰め、新しく買ったジャスミンの鉢植えを並べてみた。白い筒状の小花がかわいらしい。水をやっていると、やさしい香りが、あたりにほんのり漂う。今度は、ガーデンチェアを置いて、ここでお茶をしてもいいかもしれないと思った。 窓の外はもう新緑を通り過ぎて、夏の色一色に変わっていた。公園の樹々は濃さを増し、緑が滴たっているようだ。入道雲がわき、日差しは輝きを増して、目にまぶしい。鳩が、何羽か、羽音高く、緑の中から飛びたって行った。 杳子は、夕食の後、しばらくぶりに、蚕の糸を吐き出した。吐いても、吐いても、止まらない。前のような濃密な空間になるのには、ちょっと時間がかかりそうだ。杳子は、新たな気持ちで、熱心に自分の繭作りにとりかかった。 (了)