繭の部屋 第二回
「繭の部屋」 第二回
2 ようやく杳子も、定年後まで住むには、ローンも借りられる今のうちに、どこかの新築マンションに移り住むしかないと思うようになった。それから、杳子のモデルルームめぐりがはじまった。だが、交通至便で、静かで、日当たり、眺望がよく、適当な広さがあり、かつ杳子の買える価格のマンションというと、なかかなか該当物件が見つからなかった。 ほとんどあきらめていた頃、中央線沿線に、杳子の希望に近いマンションが見つかった。都落ちの感がしないでもなかったが、中央線なら、神保町の会社には乗り換えなしで二十分余りで通勤できる。戸数が二十戸と小規模なのが唯一の欠点だった。そのせいで、価格も、管理費も高かった。代々木のマンションが、スムーズに売れなければ、買い替えは不可能だった。 でも杳子がそのマンションの最後の買い手らしく、業者は価格を値引いても、杳子に売りたいらしかった。その分、代々木のマンションの価格も下げて売りに出してみた。杳子がきれいにリフォームして、インテリアも整えていたせいか、思いがけずすぐに買い手がついた。 そして、やっとのことで、杳子の新築マンションへの住み替えが成立した。潤平との思い出は、代々木のマンションに残してきた。 それ以来新しいマンションは、杳子ひとりだけの住まいとなった。ここが終の棲家になるかもしれないと、杳子は思った。 部屋は五階で、南と西に窓があった。窓からは近くの公園の樹々の緑から、遠くには新宿の高層ビル群までがのぞめた。前に遮るものがないので、眺望は申し分なく、日当たりも十分過ぎるものがあった。バス通りから一本入っているので、窓をしめるとこわいくらい物音がしなかった。 杳子は、早速一LDKのマンションのインテリアを、ナチュラルテイストでととのえた。一室にベッドを置き、LDKの方にはダイニングセットとソファを置いた。カーテンや、ラグや雑貨で、ちょっと南仏風の味付けもしてみた。 そのマンションも築十二年になる。大規模修繕の時期に入ったというわけだ。杳子も定年退職し、六十代に入っていた。 四月最終の月曜日の朝、大規模修繕の工事がはじまった。朝刊をとりにマンションの玄関ホールに行くと、数人の男から「お早うございます」の声がかかった。男たちの汗のにおいがする。いつもは清掃員が一人いるだけだったから、杳子はちょっと戸惑ったが「お早うございます。よろしくお願いします」 と、挨拶した。 部屋にもどって、テレビをつけながら、朝刊を読んでいると、マンション全体がなんとなく騒がしい。お昼にはもう鉄の足場が、杳子の住む五階の窓の外にも、つんつんとみえるようになってきた。杳子はレースカーテンをしっかり閉めて、窓の外をなるべく見ないようにしていた。夕方には、南側の窓全面と、西側のダイニングテーブルを置いてある窓側にも、足場がしっかりと組まれていた。 前に住んでいた代々木のマンションでも、大規模修繕の経験はあった。ただ当時は、朝出かけて、深夜に戻るような暮らしだったから、工事の人と面と向き合うようなことはなかった。杳子が外出しているうちに、工事は着々と進み、終わっていた。 ただ今回はちがっていた。定年を迎え、部屋にいる時間がぐんと増えたので、工事の進行とまともに付き合わねばならなくなったのだ。 翌日は、もう下からシートが張られていった。杳子のいる部屋の南側と西側にも、グレイのシートが張られた。買い物に出掛けたとき気づいたのだが、外からはシートに覆われたマンションの外壁は見えないが、内部からは外がうっすらとのぞけた。だから、想像していた以上には圧迫感はなかった。 ただマンション全体に足場が組まれたということで、泥棒も自由に上れるために、窓用の補助錠が配られた。それを窓に取り付けながら、杳子は、ただならぬ事態になったことを、あらためて認識した。これからずっと、室内をいつ誰に見られているか分からないのだ。プライバシーはない。 それからは、玄関ホールには、大きなホワイトボードが持ち込まれ、工事の進行具合と、その日注意することが、書き込まれるようになった。部屋ごとに、バルコニーの洗濯物干し情報もだされた。洗濯物を干して良い日は○、場合によっては取り込んでもらう日は△、洗濯物干し禁止は×の表示がされ、それが日替わりで、書き換えられていった。 続いて、「網戸取り外しおよびバルコニー内片付け」のお知らせが、郵便受けに配られた。すぐ外部から網戸が取り外され、大きなビニール袋に入れられて、バルコニーに置かれた。杳子は早速網戸をベッド脇に取り込んだ。室内まで、工事がはじまったような気分がした。 次は、「外壁面タイル薬品洗浄及び塗装面高圧水洗浄工事のお知らせ」が来て、何日かはまったく洗濯物が干せなかった。それに対応するように、玄関ホールに、「部屋干し用洗剤」が置かれ、「自由に必要なだけお持ちください」の貼り紙もあった。杳子は、きめ細かい対応だと感心しながら、洗剤を部屋に持ち帰った。 室内は、バルコニーのものがとりこまれたり、昼から洗濯物がぶらさがったりして、落ち着かなかった。 工事は朝の八時からだったので、できるだけそれまでに朝食を済ませるように心がけた。昼は、工事の人が休んでいる間にと思って、十二時にとるようにした。夕食は、みんなが帰ったあとにした。ダイニングテーブルの脇を、見知らぬ他人が足場を伝って行き来するのを無視できるほど、杳子は度胸が坐ってはいなかったから。 でも何としたことか。杳子がテーブルで午後のお茶をゆっくり飲んでいるとき、すぐ脇を大きな黒人が、足場を伝って、窓にはりつくように通るのを見てしまった。杳子は、「あっ!」と、息を飲んだ。黒人を、こんなに身近に見るのは、初めてだ。わけもなく、怖かった。心臓がどきどきした。日本人が足場を通るのを目にしたことはあったが、こんなショックは受けなかった。人種差別をするつもりはなかったが、怖いものは怖かった。 しばらくして震えがおさまると、あの男が、総会のとき話がでた外国人労働者だと気がついた。でも建設会社の社長は、そんな話は聞いていないと言っていたではないか。これまで目につかなかったことのほうが、不思議だった。工事の人をよく観察してみると、外国人は彼一人のようだった。彼は主に北側の非常階段のほうの仕事をしていたらしい。杳子の部屋周りに、ほとんど姿を見せなかったのは、そのためだったのだろう。 それから杳子は、彼のことを、心の中で「ボブ」と呼ぶことにした。ボブは、朝は玄関ホールに見え隠れしていたが、なぜか、昼食のときは車の中にいなかった。あの大きなからだを、小さく折り曲げて、近所に食べに行っているのだろうか。 ある日、杳子は、昼時、買い忘れた牛乳を近所のコンビニに買いに行った、その帰り、ボブが近くの食堂から出てくるのに、ばったり出会った。 その店は、大きいとんかつにお刺身のついた定食が売り物だった。ご飯も味噌汁もお変わり自由だ。価格も安い。だから、付近のサラリーマンには人気で、いつも混み合っていた。 日本語がわかるかなあと思いながら、杳子は、恐る恐るボブに「ランチですか?」と声をかけてみた。ボブは片言で「弁当ハスクナイ。コノ店ハ、イッパイ、イッパイ」と、恥ずかしそうに答えた。そして油が光っている口で、にっと笑った。杳子は、牛乳と一緒に買った林檎を二つ、ボブに渡した。ボブは、とても喜んで貰い受けた。 翌日の朝から、杳子が玄関ホールの郵便受けに朝刊を取りに行くと、必ずボブが待っていて、「オハヨウゴザイマス」と声をかけてくるようになった。杳子に挨拶をすませてから、持ち場へいくことにしたらしい。だから、杳子は、朝は部屋でぐずぐずしていられなくなった。「ボブが待っている」そう思うと、杳子はちょっとくすぐったいような気がした。それから何回か、ボブに、菓子パンやチョコレートを差し入れた。 次に来たお知らせは、「バルコニー内及び、外壁塗装工事のお知らせ」だった。塗料飛散防止のためのビニール養生が行われ、外が見にくくなったが、文句の言えることではなかった。塗料の匂いが鼻についた。そのシーズンは例年なら晴れの日が多いのだが、その年に限って雨の日が続いた。雨が降ると、バルコニー側の工事が中止と知って、杳子は喜んだが、よく考えると工事期間が延びるだけだった。 そんなとき、杳子は、女性の工事人がいることに気付いた。れっきとした日本人だったが、体も大きく、頭にはヘルメットをかぶり、作業服を着ているので、いままで男性と見分けがつかなかったのだ。杳子は、彼女を心の中で「花子」と呼ぶことにした。 ある日、杳子は、外階段の手すりにうっかり触って、手にペンキをつけてしまった。困っていると、どこからともなく花子が現れて、ふっくらとした手で杳子の手をつかみ、シンナーを染みこませた布でふき取ってくれた。 「ありがとうございます」と杳子が礼を言うと、「これからは気をつけてくださいね」という笑顔が返された。玄関ロビーの部屋干し洗剤なども、この花子のアイディアかも知れない。工事の人の中に、花子のような女性がいることがわかって、杳子はなにかほっとするものを感じた。 花子も、車の中では食事はしない。いつも管理室のすみで、体に似合わず、小さなお弁当箱を広げている。中には、いつもウインナーや卵焼き、から揚げなどが、きれいに詰められていた。 先日のお礼にと思って、杳子は、「食後にどうぞ」と、花子に苺を持って行った。 「すみません。いただきます」 「毎朝、お弁当作りなんて、忙しいでしょ」、「主人の分と、子どもたちの分もいっしょに作っていますから」と、花子はこともなげに答えた。杳子は、花子の薬指に、結婚指輪がはめられていることに、やっと気付いた。花子は、仕事と同じように、主婦もてきぱきとやっているのだろう。 次は「バルコニーウレタン防水工事のお知らせ」が来た。タバコなど火気にも注意とのことだった。もうヘビースモーカーだった恋人は来ないから、そんな心配もなかった。 窓を閉め切っていても、塗料のにおいはするし、物音もした。エレベーターなどで、住民といっしょになると、「うっとうしいですね」が挨拶がわりになっていた。 (次号に続く)