隣室の妻
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マンションの玄関ドア前で、沙織がバッグの中のキイを探していると、隣室の主婦、美和がドアから顔をのぞかせた。 「こんばんわ。相変わらず遅いのね」 「ここのところ、締め切りに追われていて」 沙織は、出版社に勤めて十年になる。 「そうそう、あなたにお伝えしておいたほうがいいと思ったんだけど、この前、下の玄関のところで変な人に声をかけられたの」 「変な人って?」 「探偵事務所の者ですって、名刺を渡された。あなたに縁談があるから、調査をしているんですって。いつも、何時ごろ帰宅するかとか、来客は多いかとか、しつこいの。だから、知りません、教えられませんって断っちゃったけど、まずかったかな?」 「私、縁談なんて聞いたこともないわ」 「なんか気味悪いわね。断っておいてよかったのね。じゃ、お休みなさい」 沙織も挨拶して部屋の中に入ったが、胸がドキドキしてきた。縁談なんて嘘だ。このところ、仕事で知り合った妻子持ちのカメラマン、喬と不倫していたから、向こうの妻が調査を依頼したにちがいない。喬とは食事したり、飲みに行ったり、ホテルへ行くこともある。まずいことになったなと、頭を抱えた。 こんな時間に電話はかけられないから、喬の携帯へ、連絡が欲しいとメールだけ入れた。すぐ携帯が鳴った。喬からだ。 「どうしたの? 風邪でもひいたの?」とやさしい。沙織は手短に事情を説明した。 「女房はそんな女じゃないよ。学生時代からの腐れ縁だし、子供もいるし、もう僕には関心ないさ。生活費さえ渡していれば、探偵に依頼なんてしないよ」と、一言のもとに否定した。 でも沙織は納得できなかった。妻って、ふだんは夫に関心がなくても、浮気を知れば、黙ってはいられないはずだ。「大丈夫だよ。今度会ったとき詳しく訊くよ」と、喬はなだめるように電話を切った。 沙織は、夫のDVにあって、一年で離婚した苦い過去がある。もうあんな騒ぎはこりごりだった。五歳年下の喬とは、お互いの生活に踏み入らない程度の、スマートな恋をしていたかった。再婚なんて考えも及ばない。 翌朝は定時に起きたが、本当に風邪をひいたらしい。熱っぽいし、頭痛はする。原稿は提出してきたから、「今日は休みます」と会社へ電話して、もう一度、ベッドへ戻る。昼まで眠ってしまった。おなかが空いて、目が覚める。冷蔵庫を開けたが、食べたいものがない。厚着して、近所のコンビニに、風邪薬やフルーツなどを買いに行くことにした。 マンションの下の玄関で、美和とすれ違った。珍しくしっかりとメイクしている。 「風邪をひいてしまって、お休みしたの」 「あら、お大事になさってね」 美和はそっけなく、エレベーターへ向う。その後ろに、背の高い男が寄り添っていた。夫ではない。見たことのない男だった。 「誰だろう」と思ったが、風邪で、他人のことなどかまっていられない。コンビニで必要なものだけ調達すると、すぐマンションへ戻った。玄関の前の道に、見慣れないトレンチコートの男がたたずんで、時々マンションを見上げている。「この男が、美和が言っていた探偵かもしれない」と、沙織は足早にエレベーターに乗って、六階の部屋へ戻った。鍵を締めたが、不安になって、ドアチェーンまでかけた。そっと窓から下を覗いて見ると、その男の姿はもう消えていた。 ほっとして、簡単な食事をし、風邪薬を飲むと、ベッドへもぐりこんだ。薬のせいか、またとろとろしてきた。 その時、隣の部屋で大きな物音がして、目が覚めた。ドアを開ける音がし、何人かの話し声が響く。女の泣き声がする。このマンションは、コンクリート造りで、壁も厚いから、普通の音や声なら伝わらないはずだ。どうしたのだろうか、放っておいていいものだろうか、場合によっては、「110番したほうがいいかもしれない」と思った。 ガウンを羽織って、沙織は玄関ドアを細目に開けてみた。ちょうど、さっきのトレンチコートの男が、背の高い男を引っ立てるように、廊下に出てきたところだった。こんな時間なのに、隣の夫もいて、バタンと大きな音をたててドアを閉めた。静かになった。 沙織は、すべてを理解した。不倫していたのは美和だったのだ。昼間、部屋で妻が男と逢っているのを知った夫が、探偵に調査させ、不倫の現場を押さえたのだ。探偵が美和に声をかけたのは、美和自身と接触したいためだったのだろう。それに気付かなかったのは、美和の取り返しのつかないミステイクだったのだ。 数日して、隣の夫婦はマンションを引っ越して行った。沙織には何の挨拶もなかった。