おじいちゃんの恋
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おじいちゃんは、朝から、ほとんどない髪の毛をていねいになでつけ、ポロシャツを着替えたり、靴下も新しいのをはく。そのかっこうで、玄関周りの植物の世話に行く。たいせつな朝のデイトの時間なのだ。 お相手は、同じマンションの七階に住む桜井さん。ふたりはほんの数分、立ち話をするだけだ。桜井さんは、早くに夫を亡くし、ずっと図書館の司書をしていたけれど、去年定年退職したと聞く。ほっそりとして、きれいな人だ。毎朝、玄関にある郵便受けに朝刊を取りに来る。その時、おじいちゃんが玄関周りに並べている盆栽や鉢花を眺めて、褒めてくれたり、質問をするらしい。 ぼくは予備校に行くとき、立ち聞きしてみたが、おじいちゃんはちょっと耳が遠いので、声が大きい。話がよく聞こえた。なんとも他愛無い会話だが、おじいちゃんには、かけがえのないひとときのようだ。 このマンションは、一階は、おじいちゃんの歯医者さんになっている。もともとここの土地で、歯医者を開業していたのだが、ぼくが生まれた頃、マンションに建て替えたそうだ。ぼくたちの自宅は、このマンションの八階で、おじいちゃんとおばあちゃん、お父さん、お母さんと、ぼくの、五人で暮らしている。おじいちゃんは、八十五歳で、まだ現役。古くからの患者さんが、途切れない。 ある日曜日、おばあちゃんは、友だちはみんな死んでしまったり、病気で寝込んでいて、もう最後のクラス会だよ、といってお昼ごろ、珍しく出かけて行った。 おばあちゃんが出かけるとすぐ、おじいちゃんは桜井さんに電話をしていた。近所の公園でやっている山野草の展示会に誘っている。桜井さんも、承知したようだ。おじいちゃんは、五月とはいえまだ肌寒いのに、たんすからアロハシャツを引っ張り出して、うきうきと着替えた。 ぼくは勉強にも飽きていたので、ふたりを尾行してみることにした。探偵になったような気分で、玄関の茂みに隠れた。おじいちゃんは、張り切って玄関前に立っていた。桜井さんが、普段着でエレベーターから降りてきた。 「このアロハは、昔、歯医者仲間でハワイ旅行をしたとき買ったんですが、なかなか着る機会がなくてね。どうですか?」 「とてもお似合いですよ」 おじいちゃんは、胸を張ってにっと笑った。そして杖もつかず、すたすたと歩き出した。 鼻歌を歌って、デイトを心から楽しんでいるようだった。公園へは五分とかからなかった。 「私、時々、ここまで散歩に来るんですよ」 「診察日は、なかなか出られなくてね。久し振りです」 目の前は広々とした芝生で、そこここに大木がそびえている。池には、太った鯉が泳いでいる。新緑のにおいで、むせかえるようだ。 「いい眺めだ」 「きれいな公園ですね」 「我が家にも昔は庭があって、小さな池もありました。今頃は、藤や紫陽花が咲きました」 「いいお庭だったんでしょうね」 「マンションにしたら、家も庭もなくなってしまいました」 おじいちゃんは、当時を偲んでちょっと淋しそうに微笑んだ。それからふたりは、公園の一角に設けられた、今日の目的の野草展へ足を伸ばし、四、五種類の苗木を選んだ。 「どこかでお茶でも飲みましょう。鬼の居ぬまの洗濯、洗濯」 おじいちゃんは、そんな冗談を言って、近くの喫茶店へ立ち寄った。ぼくは、ふたりに気付かれぬように、片隅の席に座った。 「ばあさんは口うるさくて、マンションの皆さんにはきらわれているようだけれど、私のことはよく面倒みてくれる。感謝してます」 桜井さんは、深くうなずいた。 「でもそんなことを言うと、どんどん鼻が高くなるので、ふだんは黙っているんですがね」 「おやさしいんですね」 おじいちゃんは、おばあちゃんのことも、大事に思っているのだなと、ぼくは安心した。 「また、秘密のデイトをしましょう」 そう言うと、おじいちゃんは時間を気にして、早々に腰をあげた。またの機会は、とうとう巡ってはこなかったけれど。 おじいちゃんは、その日の薄着がたたったのか、風邪をひいて、ずっと起きられなくなった。入院はいやだというので、自宅で家族で面倒をみた。最後は、寝る前におしっこをすませたあと、付き添っていたおばちゃんの腕のなかで、そのまま息をひきとった。 お葬式には、マンションの人も参列してくれた。桜井さんも涙ながらにお焼香してくれた。おじいちゃんも天国で喜んでいるだろう。 それから枯れかけた玄関の植物の世話は、ぼくと桜井さんの役目になった。毎朝、ぼくは、寝癖の付いた髪の毛をなでつけながら、緊張して玄関に下りて行く。