各駅停車
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大野は疲れていた。就業時間間際に仕事のトラブルが続いて、その処理にくたくただった。午後十時にやっとそれが終わった。入社十年目に大ポカをしたせいか、彼は出世コースから完全にはずされていた。五十代になった今でも、万年係長だ。六十歳で定年になるのを、待つだけの毎日だった。 駅に着くと、快速電車は満員だった。乗ってしまえば、一時間もかからずに目的の私鉄駅に着くのだが、とうてい座れない。吊り革につかまったままでの一時間は、辛かった。「時間はかかっても、各駅停車で座って帰ろう」と、大野は快速の向かいに停まっている各駅の車両に乗り込んだ。こちらも混んではいたが、優先席に一席だけ空席が見つかった。いいのか悪いのか、彼は髪が大分後退し、白髪も混じっている。今まで優先席に座ってもとがめられたことはない。たまには、席を譲られることがあるくらいだ。そんなときは、意地を張ったりせずに、彼はお礼を言って腰かけることにしていた。 車内は、人の吐く酒臭い息と、汗の匂いが充満していた。それでも、快速よりはるかにましだ。大野はほっとして新聞を広げる。でもたちまち睡魔に襲われた。電車の発車を待つ間もなく、すっかり眠り込んでしまった。隣の男が、寄りかかってきた大野を迷惑そうに押し返した。彼は姿勢を正したつもりだったが、また反対側の男に押し返された。 疲れているんだ。昨日今日の疲れではない。三流大学を出て、ようやく就職できた不動産会社で、夜昼なくこき使われた。その永年積み重なった疲れが、たまりにたまっているのだ、と大野は思った。 ようやく重い瞼を押し開くと、車内はだいぶん乗客の数が減ってきた。今、電車はどのへんを走っているのだろうと、窓の外を見ると、真っ暗な家並みが続いているばかりで、見当がつかない。今度、停車したら、駅名を確かめようと思っているうちに、また彼は眠り込んでしまった。 やっと目が覚めると、もう車内にはほとんど乗客が見当たらない。もしかして、乗り過ごしてしまったのかと、大野は次の駅名をしっかり確かめた。覚えのない駅名だった。次の駅も、その次の駅も、まったく心当たりがない。三十年近く乗っている電車だったから、終点までの駅名は嫌でも記憶していた。眠っているうちに、電車の行く先が変更になったのだろうか。でも、今まで一度もそんなことはなかった。 車掌が回ってきて、この駅が終点だから、下車するように、大野を促した。彼は半信半疑のまま、電車を降りた。 見知らぬ駅前には、もうバスはなく、タクシーが数台停まっていた。大野は仕方なく自宅まで、タクシーで引き返すことにした。タクシーに乗ると、「どちらまで?」と訊かれたので、「○○団地」と団地名を告げた。「分かりました」と、老年の運転手は迷うことなく直ぐ車を発車させた。 タクシーは信号停止もなく、暗い国道を飛ぶように走って行く。「俺はとうに団地を出て、一戸建てに移ったんだ。なんてうっかりしてたんだ」。大野はそう気づくと、運転手に行先変更を告げようとした。でも、言う暇もなく、「お客様、○○団地です。何号棟ですか?」と訊ねられた。 団地は、大野が引っ越すと間もなく高層マンションに建て替えられたと聞いていた。でも、彼の前には、四階建ての団地群が、闇の中で廊下灯だけが明々と、延々続いている。彼はあっけにとられて、料金を払うとタクシーを降りた。 大野は、うろおぼえの昔の部屋番号を辿ってみた。三階だったが、もちろんエレベーターはない。石の階段をコツコツと上った。息が上がった、彼の家だけ、玄関にも台所にも灯りがついていた。表札には彼の名前が書いてある。彼は、不審に思いながらも、おそる、おそるベルを鳴らしてみた。 「はーい」という、妻の明るい声がした。すぐに玄関ドアが開く。「待ってたのよ。遅くまでお疲れさま。ビールにする?お風呂にする?」久々に耳にするやさしい言葉だった。 妻は、ゆるくカールさせた髪を肩まで垂らし、エプロンをかけていた。妻は妻だが、とてつもなく若い。「子供たちも待ってたんだけど、パパが遅いから、もう寝ちゃったわ」と言う。子供たちはもう独立して、家にはいないはずではなかったのか。 いぶかしく思いながら、大野は玄関に足を踏み入れる。上り口の鏡に、自分を写してみた。なんとしたことか、黒いフサフサした髪が額にかかり、顔にはしわもしみも見当たらない。鏡には、二十代の彼がいた。 大野は、「やった!」と、躍り上った。「やり直せるんだ、あんなみじめな五十代なんてまっぴらだ。やり直して、きっと出世してみせる」。彼は、笑いが止まらなくなった。