世界が終わる日
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葵は夢を見ていた。それは、世界が終わる日の夢だった。 葵は、ひたすら道を歩いていた。住宅地には人っ子一人いない。犬も、猫も姿がなく、鳥の鳴き声も聞こえない。およそ生きているはずのものが、すべて消えていた。 今まで世界の終りというのは、大地震が来て、ビルや高速道路が倒壊し、クルマは各所で衝突し、その中を人々が逃げ惑うとか、津波が押し寄せて、人も家も飲み込まれてしまうとか、火山が噴火し溶岩が流れてくるとか、葵はそんな凄惨な風景を想像していた。 でもこんなに、静かに、生きものが消えて、これまでの世界が終わってしまうなんて、思ってもみなかった。葵はどうしようもなく怖かった。 誰かに会わないかと、葵は足を早めた。自分の足音だけが響く。足をとめると、ドキドキしている心臓の鼓動が聞こえる。ほかには何も聞こえない。静かというより、無音の世界だった。葵は足を速める。もう少し行けば、何か分かるかもしれない。 しかし、いくら歩いても、周囲は同様な住宅地ばかりが続いていて、変化がない。葵は歩き疲れて、道の中央にしゃがみこんでしまった。「誰か来て! 助けて!」と、大声で泣き叫んだ。 その叫び声で、葵は目が覚めた。「ああ、よかった、夢だったんだ」と思った。「どうしてこんな夢をみたんだろう」と、頭を振ってその夢を振り払った。 シーツに甘い体臭とぬくもりを残しているのに、いっしょに寝ていた拓也が見当たらない。普段は脱ぎ捨てられているパジャマもない。葵は首をかしげたが、ひとりうなずいた。彼はいつも早起きだから、朝のジョギングにでもでかけたのだろう。 葵は着替えをし、拓也が戻るまでにと、てきぱき朝食の支度をした。といっても、トーストを焼き、スクランブルエッグと、トマトとブロッコリーのサラダを盛り合わせ、コーヒーを淹れるくらいだ。 トーストの焼ける香ばしい匂いと、ボコボコというコーヒーの芳醇な香りが、ダイニングに漂う頃になっても、拓也は戻らない。手持ち無沙汰になった葵はテレビをつけた。スクリーンは、夕べまではきれいに写っていたのに、砂嵐状態だ。買って間もないのに、故障したのかと、リモコンで次々チャンネルを変えてみたが、どの局も同じだ。まだ保証期間は切れていない。後で電器店へ連絡をしてみよう、そう思いながら葵は、朝刊を取りに玄関を出た。マンションだから、新聞は一階の郵便受けに配達される。エレベーターは止まっていたので、三階から階段を駆け下りた。 新聞は届いていない。ほかのお宅の郵便受けもからっぽだから、今日は新聞休刊日なのだろうか。葵は、首をかしげながら部屋へ戻った。住民の誰かと顔を合わせてもいい時間なのに、誰とも出会わなかった。何かがおかしい。何かが、狂ってしまったのか。違和感を覚えながら葵は、ダイニングの椅子に腰かけて、拓也の帰りを待った。パンもコーヒーも冷たくなったというのに、彼は戻ってこない。玄関の靴箱を確かめた。ジョギングシューズは、定位置にあった。 葵は、その場ににたちすくんだ。夢が現実になったのか。拓也をはじめ、人間という人間が、この世から、すべて消えてしまったにちがいない。今まであった世界が、忽然と消え、自分ひとりがこの世に残されてしまったのだ。 村上春樹の話題の小説「1Q84」を、葵は思い出した。あれは、高速道路から、別の世界へ行き来していた。そんな入り口が、この家にもあるのだろうか。 夕べ、拓也は葵の横で寝ていたのだから、いなくなったのは寝入ってからだと、彼女は思った。パジャマのまま、ベッドからすっと消えてしまったのだ。葵は、なんとかして拓也のいる世界へ、タイムスリップできないものかと考えた。入り口は、このダブルベッドに違いない。葵は確信めいたものを感じた。 葵はパジャマに着替えたが、すぐ眠れるとは思えなかった。睡眠薬を、多めに飲み干すと、ダブルベッドにもう一度もぐりこんで目を閉じた。寝返りを打つまもなく、眠気がやってきた。葵の意識は遠のいていった。 「おい、おい、いつまで寝てるんだよ、もう起きないと会社に間に合わないよ」と、葵は拓也に強く揺り起こされた。夢を見ていたような気がしたが、内容はまったく記憶にない。急いで着替え、コーヒーも飲まず、マンションを出た。そして拓也と、バスを待つ長い列に並んだ。いつもと何の変わりもない朝の風景だった。 葵は、腕時計を見た。秒針が左回りに、カチカチと時を刻んでいた。