ハガキ
◎
「地元で新年会をやりませんか」 その電話は、十二月末の午後、カルチャーセンターの短歌のクラスの杉本から突然かかってきた。講座が終わったあと、みんなで食事したり、お茶を飲んだりしたことはあったが、彼と二人きりになったことは一度もなかった。 「ほかにどなたがいらっしゃるんですか」 「地元にはあなたしかいませんよ。正月の四日はあいていませんか」 景子は手帳の日程表があいていたので、つい「はい」と答えてしまった。 「フランス料理でランチというのはどうかな。宮沢賢治ゆかりのいい店があるんですよ」 「フレンチは好きですけれど」 「じゃ、四日の十二時ころ、阿佐ヶ谷駅で待ち合わせということにしましょう」 電話を切ったあと、景子は呆然としてしまった。「これは、デイトの誘いではないか」と思った。彼は、この前クラスで、「自分もいつのまにか古希になってしまった」と言っていたから、七十歳だ。髪は半白だが、肌はつやつやしていてその年には見えない。 景子だって、定年退職してから、カルチャーセンターへ通うようになったのだから、もう六十五歳だ。まさか初老のクラスメートからデイトに誘われようとは、思ってもいなかった。彼に限らず、最近は男性に特別な感情を抱くことなどめったになかったから、戸惑いのほうが大きかった。 当日、杉本は先に来ていた。そしてちょっと照れたように彼女を迎えた。 レストランは駅前の混雑を抜けた静かな住宅街にあり、山小屋風の作りだった。地階が古い映画の上映館になっていて、昔、著名な文化人を生んだ土地柄らしく、昭和の匂いがした。景子は阿佐ヶ谷に住んでいるものの、この一帯には足を踏み入れたことはなかった。 「いい店でしょう。地元でお勧めできるのはこの店くらいしかない。有機野菜など使っていて、体にもいいんですよ。僕も会社勤めしていた頃は、健康そのものだったなあ。それが最近はコレステロール値と血圧が高くて、食事には気をつけてるんですよ。女房も料理には気を使ってくれてね」 杉本は有機野菜のサラダと牛肉の赤ワイン煮を、景子は生ハムとルッコラの盛り合わせとサワラのポワレを注文した。ワインで乾杯した。 「女房はね、俳句をやってるんですよ。句会だ、吟行だって、毎週出かけて行く。今日は仲間といっしょに、巣鴨のとげぬき地蔵の吟行に行ってますよ」 「奥様は俳句は長いのですか」 「もう十年はやってます。ところであなたの短歌は女らしくてしなやかだ。恋の短歌が特にいい。お一人だと聞いたけど、誰か恋人でもいらっしゃるんですか」 景子は笑って否定しながら、笑顔がこわばるのをおさえきれなかった。杉本は定年以降は、妻に頼りきりらしい。だから話といえば、妻のことばかりではないか。その妻が外出がちだからといって、手近な女性に声をかけてみる。そんな男の素顔を垣間見たような気がした。「浮気相手になるなんてとんでもない」と彼女は思った。 「今日は僕が誘ったんだから、ごちそうしますよ」。清算をすませた杉本は、テーブルの上のレシートを、さっと握りつぶした。家にもって帰るわけにはいかないのだ。 「また誘いますよ。あなたは年も近いし、恋をたくさんしてきたようだから、つきあいやすい」 「とんでもない。今日はごちそうさまでした」 杉本は阿佐ヶ谷駅からバスだということで、景子は駅頭でサラリと彼と別れた。そして家へ帰ると、ハガキをとりだして、早速礼状を書いた。 「本日は、ごちそうさまでした。久しぶりのフレンチは、とてもおいしゅうございました。さすが、杉本様お勧めのレストランだけのことはありました。お話も楽しかったです。今度お暇なときに、私の行きつけの和食のお店へお連れしたいと思います。ではまた、お礼まで。景子」 ハガキだから、妻が読んだらなんと思うだろう。自分は悪くない。あたりまえのことをしているだけだ。杉本は、うまく切り抜けることができるだろうか。ある騒動を想像しながら、景子はにっこりと、ハガキをポストに投函した。