戻ってきた携帯電話
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先日、景子はケータイを失くした。スーパーで、ケータイの「買い物メモ」を確認したところまでは記憶しているのだが、家へ帰ったら見当たらない。エコバッグから、買い物をした食品を入れた冷蔵庫まで探したが、ない。六十歳を過ぎても、若く見えるのが自慢だったのに、「私、もうボケたのかしら」と、彼女は不安になった。 それでも家のどこかにあるかもしれないと、家の電話から、自分のケータイへ電話してみた。「この電話は電波の届かないところにあるか、電源が切ってあります」と、機械的な声の応答。落としたことがはっきりした。景子はあわてて、スーパーの遺失物係へ問い合わせてみた。届いていないという。今度はケータイを買ったショップへ問い合わせると、電話にロックをかけてくれ、警察へ紛失届を出すようにとの指示だった。 景子はひとり暮らしだったから、定年後は自分の安否確認のため、毎朝ケータイで妹へ「おはようメール」をしている。五十代そこそこのひとり暮らしの女優が、自宅で倒れて、発見されたときは死後二週間もたっていたというニュースは、他人事とは思えなかった。 景子のケータイには、友人や親戚、病院などの電話番号から、その月のスケジュール、買い物メモ、趣味の俳句まで入っている。もう暮らしのパートナーだ。電話やメールをかけまくる若者とは違う使い方だろうが、彼女には必需品だったから、早速、近所の交番へ駆け込んだ。 交番には、若い警官と、中年の警官がいた。若いほうは道案内をしていたので、中年のほうが、景子の訴えを聞き、「届出用紙に記入してください」と、椅子を勧めてくれた。 用紙に住所や氏名、紛失したと思われる時間、場所、ケータイのメーカーや機種、色、形などを記入すると、警官は、「何か特長はありませんか。ストラップはつけていましたか」などと聞いた。景子が顔を赤らめながら「SMAP(スマップ)のコンサートで買った、ロゴ入りの革のストラップをつけていました」と答えると、警官はそれまでの事務的な応対から、突然笑顔に変わった。そして「こんなふうですか」とメモ用紙にストラップの絵を描いて見せた。彼女は大きくうなづいた。 「ちょっと待ってください」と、警官は奥の部屋へ入り、すぐ戻ってきて、「該当品が届いています。確認してください」と言う。それはまさに、景子のケータイだった。SMAPのストラップもついたままだ。景子はあまりのうれしさに、興奮しながら、「お礼は?」と尋ねると、「『持ち主にちゃんと戻れば』と拾い主は言っていましたよ。名前も言いませんでした」と、警官は答えた。今時、拾い主はなんという奇特な人だろう。何度お礼を言ってもいい足りないくらいだ。ありがたさが身にしみた。彼女は、受け取りの署名をし、警官に何度も何度も頭を下げて、家へもどった。 きっと、スーパーで「買い物メモ」を見たあと、バッグへケータイを戻すときに、取り落としたのだろう。これからは十分注意しようと、景子は傷一つないケータイをいとおしむように眺めた。そして、妹へ事の顛末をそのケータイで報告した。四歳違いの妹は、「もう年なんだから、気をつけなさいよ」と、手厳しかった。 翌朝、景子は、ケータイの着信音にしている「ノクターン」のメロディーで起こされた。めずらしく「妹が心配して電話をしてきたのだろう」と、寝ぼけまなこで電話をとった。 「もしもし」と言うと、男の声が返ってきた。「おはよう、もう起きたかね」「・・・・・」「返事くらいしたっていいじゃないか」「・・・・・」「ケータイが見つかってよかったね。だから、起こしてあげたんだよ。今日は、句会へ行く日だろう。もう起きないと」 相手は公衆電話からだった。景子は、慌てて電話を切った。何もかも知られている!きっと拾い主が交番へケータイを届ける前に、電話帳も、スケジュールも、データBOXも、テキストメモも、何もかも見たのだ! 景子は、ベッドの上で凍りついた。公衆電話からでは、迷惑電話着信拒否登録もできない。このままではいつまた不気味な電話がかかってくるかもしれない。それを避けるために、ケータイの電話番号やアドレスを変えるか、思い切ってケータイを買い換えるか、とにかくケータイショップに相談しようと考えた。 そのとき、ふとケータイから聞こえてきた声が、昨日の中年の警官の声に似ているような気がした。その疑いは、急速にふくらんだ。そうか、あの笑顔はこういうことだったのか。彼女は震えがとまらなくなった。