「山の上ホテル」休業によせて
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JR御茶ノ水駅を降りると、駅内外のバリアフリー化工事の騒音とともに、神田川の臭いも漂ってくる。駅前には、大学、予備校、病院、薬局、楽器店、スポーツ用品店、書店、古書店などが騒然と並び立ち、学生からお年寄りまでが、いつもせわし気に行き交っている。昭和と平成と令和が、混じり合っている街だ。 私は、雨の日も風の日も、その御茶ノ水にあった出版社「主婦の友社」へ通勤し、三十六年勤め上げた。定年退職後も、病院通いを始めとして、友人と会ったり、書店巡りをしたり、月一、二回は必ず御茶ノ水駅に降り立つ。 東京都大田区に生まれ、世田谷区、渋谷区など都内を転々と住み替えた。今住んでいる杉並区が三十年と一番長くなってしまったが、それよりも長い年月を過したのが御茶ノ水だ。自分の人生の大半がそこにあるような気がする。私には郷里はないから、とても風光明媚とは言いがたいが、御茶ノ水界隈がなつかしい故郷のように感じられるのだ。 ところで昨年十月、御茶ノ水の「山の上ホテル」が今年2月13日に全館休業というニュースが流れた。最近、昭和年代の建築物の閉館,建て替えのニュースは珍しくないが、私は御茶ノ水のシンボルとも言えた「山の上ホテル」の休業には、ひとかたならぬ衝撃を受けた。 公式ウェブサイトでは、「竣工から86年を迎える建物の老朽化への対応を検討するため」とし、休館の期間については「当面の間」としている。「ホテルを存続させるには、建物の抜本的な工事が必要だと判断した。建て替えも選択肢に含めて対応を検討する」そうだ。 建物は1937年竣工で、当初は、衣食住に関する西洋式の知識や技術を女性たちに教える教育施設として設立された。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されたが、1954年にホテルとして開業された。 設計は、アメリカ出身の著名な建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。鉄筋コンクリート地上六階、地下二階建てのアールデコ様式の洋館だ。ニューヨークの摩天楼を意識しているとも言われている。館内は全三十五室でレイアウトが同じ部屋はなく、日本庭園付きのスイートルームから約二十五平方メートルの小さな屋根裏部屋まで多種多様だ。千代田区の「景観まちづくり重要物件」にも指定されていた。 出版社が多い神田神保町が近いこともあり、創業当初より、三島由紀夫や川端康成、池波正太郎といったさまざまな作家が「カンヅメ」で執筆活動を行うために宿泊した。滞在する作家の好みに合わせ、ベッドを片付け、畳や座卓を用意したり、辞書や小説の文献を並べる本棚が置かれたりもしていた。昭和の時代、ロビーには原稿のできあがりを待つ編集者が溢れていたそうだ。 ホテルの休館については、ゆかりのある著名人からも惜しむ声が聞かれた。山の上ホテルが定宿で、東京に来た際、執筆する場所だという作家の故・伊集院静さんは、「たくさんの作品を創り上げることができたのはこの山の上ホテルがあったからだと思います。ありがとう」と話していたという。 また、館内には規模に比してバーやレストランなどが充実しており、「てんぷら山の上」はじめ、休業前には直営の飲食店七店が運営されていた。 私が勤めていた駿河台の主婦の友社の社屋も、1924年に「山の上ホテル」と同じヴォーリズの設計により建てられた瀟洒な五階建ての建物だった。私が入社したのは1968年、社屋はすでに四十年以上たっていたが、古い建物ならではの風格があった。いかにも老舗の出版社という雰囲気もあった。インクと紙の匂いがしみついてもいた。古びた大理石の階段を上がると、いかめしい玄関ドアがあり、受付には制服姿の女性が応対していた。 受付の横には、昔のフランス映画にでてくるようなエレベーターが設置されていた。手でガラガラと折り畳み式の金属製の扉をあけ、乗り込むとまた手でガラガラと閉める。行く先階ボタンを押すと、エレベーターはおもむろに上昇する。でも社員だけの使用は禁止。客を伴っているか、大荷物を運ぶときだけ、使うことを許されていた。 やはり伝統あるこの社屋も老朽化し、1981年建築家・磯崎新の設計によって、「御茶ノ水スクエア」として生まれ変わったが、出版社の業績不振により、2001年に日本大学に売却された。看板雑誌「主婦の友」は、九十一年の幕を閉じて、平成二十年に休刊。本社も貸しビルに移転していた。 そういういきさつもあって、社から徒歩5分の「山の上ホテル」は、入社以来、公私ともに愛用したホテルだった。三十六年間の記者、編集者生活とは、切っても切れないホテルと言える。 新人の頃は高級なイメージで近づきがたいホテルだったが、そのうちお茶や食事で時々同僚と利用するようになった。学生時代の友達と会うときには、自分のホテルのように自慢げに、ここを指定したりした。 残業で遅くなって先輩と共に泊まったこともある。先輩には先に休んでもらって、私達は夜通し原稿を書き、翌朝早く、見てもらったこともある。 我が家のリフォームの時は、自宅にいられなくなったので、それならと思い切って「山の上ホテル」の新館のシングルの部屋に泊まった。豪華なバスルームを使い、ダイニングルームでクロワッサン、紅茶、フルーツといった朝食をとって、徒歩5分の社へ通勤したこともあった。 このホテルで結婚式を挙げた社員の披露宴にも出席したし、恩師の出版祝いの会を開いたこともある。私の定年送別会も、ここの新館のレストラン開いてもらった。お礼の挨拶をした後、花束をかかえ、皆に見送られて、ここからタクシーで帰宅した。三十六年勤めた最後の日にはふさわしいと思えた。 定年になってからも、ゆっくりお茶したいとき、美味しい食事をしたいとき、一人でも、友人とでもここへ足を延ばして、ちょっと贅沢なひとときを過ごしたものだ。 だから、休業のニュースが流れるや否や、当時の仕事仲間に声をかけ、すぐ、フレンチレストラン「ラヴィ」を予約した。空いている日は、もう少なかった。でもこのホテルとのお別れは、やっぱり仕事仲間とここで語り合いたかった。十年振りの仲間もいたが、すぐ当時に戻って話は尽きなかった。シャンパンで乾杯。アミューズから、ポタージュ、肉か魚のメインディッシュ、ワゴンデザート、コーヒーか紅茶というコース料理は、どれも丁寧で味わい深かった。サービスにも心がこもっていた。記念写真も撮った。それから先の予約は、もう一杯だとのことだった。 ホテル休業の翌日も、なごりおしくて、私は坂を上がってホテルの様子を見に行った。昨日までホテルを懐かしむ客や、マスコミで賑わっていたのに、その日はもう閑散としていた。工事関係者が玄関周りを片付けていたり、通りすがりの人がスマホで写真を撮っていたり。気落ちしてまた坂を下ると、道沿いの「山の上ホテル」の案内の看板だけは、まだ取り壊されずに残っていた。 また時を同じくして、神田錦町の「学士会館」も老朽化のため、再開発に着手するそうだ。2029年夏の竣工を目指すという。主婦の友社のOB会は、かつては社の食堂などで開催していたが、社屋がなくなってからは、昔の社屋にイメージの似た学士会館を利用するようになっていた。その会場の見通しも立たなくなったのだ。 早々に我が「主婦の友社」は売却移転、「山の上ホテル」は休業、「学士会館」も再開発ということになって、古き良き御茶ノ水の主要な建物は、時代と共に消え去った。長かった御茶ノ水駅の改良工事は、すでにエレベーターやエスカレーターは設置され、今年完成というが、どんな駅に生まれ変わるのだろう。刻々変わっていく御茶ノ水界隈の街にも路地にも店にも、若き日の自らの足跡をたどるのはもう難しくなりそうだ。 ※なお、明治大学は、2024年11月15日、「山の上ホテル」が建設されている土地と建物を取得したと発表した。現状の外観を維持したまま必要な改修工事を施したうえで、専門業者と連携しホテル機能を継続させるとともに、学生支援、地域連携、社会連携の機能としても利活用ができるよう検討しているという。 (完)