あわや! 特殊詐欺に遭いかけて
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定年退職は素敵だ。三十六年も勤めたから、退職直後は世の中の「おじさん」たち同様、これから何をしたらいいのかと戸惑った。でも数年たったらやりたいことも見つかり、まさに晴耕雨読。お天気に合わせて、自由にその日のスケジュールをたてられるのはとてもいい。だがこのところ新型コロナウイルスのおかげで、気の向くままに外出ができなくなったのはゆううつだ。どうしてもパソコンタイムが長くなってしまう。 そんな日の午後、家でいつものようにパソコンに向かっていたら、固定電話が鳴った。今や必要な電話はスマホにかかってくる。以前、無視したら、応募原稿当選のお知らせだったから、とりあえず受話器をとった。 「Mさんのお宅ですか」と、聞き覚えのない男の声だ。「はい、私ですが」と言うと、「ご本人ですね。私は新宿Aデパートのお客様センターの安田と申します。お手元にうちのデパートのカードはございますか」と訊く。 私はカード入れを確かめた。いっときコロナも治まってきた頃で久し振りに新しい外出着が欲しくなって、そのデパートのクレジットカードを作ったばかりだった。 安田は「店にMさんのお名前のカードを持った女性客が来て、百万円ほどの洋服の買い物をなさいました。店員が本人確認を申し出ると、トイレへ行くといって姿を消した。私どもでは偽造カードだと気付き、すぐ新宿警察と全国銀行協会に連絡して被害が広がらないよう依頼しました。まもなく両者から電話が行きますので、それぞれの指示に対応してください」と言う。私は「わかりました」と受話器を置いたが、その女が偽造カードで次々買い物をしたらどうしようと、不安にかられた。 間をおかず、全国銀行協会の田所という男から電話があった。「こちらのデータでは、今のところほかでカードを使用した形跡はありません。ただ今後使用するかもしれないので、あなたの持っているクレジットカードの種類と取引銀行名を教えて下さい」と言う。 さらに「それぞれの銀行通帳の最終の残高を教えてください」と続ける。私は慌てて通帳を取り出した。 「では銀行ごとにその残高を読み上げて下さい。その金額が減っていないかどうか、こちらから各銀行に問い合わせます」 私は言われるままに三冊ある通帳ごとの残高を読み上げた。そこでいったん電話が切れたが、すぐまたかかってくる。 「現在、各銀行の残高に変わりはありませんでしたが、安全のため、カードの暗証番号はすべて変更したほうがいいでしょう」と言う。私が「それぞれの銀行へ行って、すぐ変更の手続きをしたほうがいいですね」と答えると、「いや、それはたいへんです。うちの協会の職員をお宅に伺わせますので、今お持ちの銀行カードを預けて下さい。暗証番号も伝えて下さい。当協会が一括して変更手続きをします。新しいカードはこちらから郵便書留で送りますので、住所はどちらですか」と訊く。私は素直に住所を言ってしまった。 「でも手元にカードがないと、お金が引き出せなくなりますが」 「だいじょうぶ。通帳と印鑑がお手元にあれば自分でお金を引き出すことはできます」。田所は、律儀でバカていねいな銀行員のイメージそのものだった。 まもなく新宿警察の捜査二課の川上という男から電話があった。「さきほどデパートと、全国銀行協会から連絡がありました。警察としては、デパートの防犯カメラを調べ、署のものを新宿駅近辺に配置してその女を探しています」と、いかにも警察らしい対応だ。 私はそこまではこの話を疑いもしなかった。 安田に始まって、矢継ぎ早やの電話で、私は喉がからからになっていた。冷蔵庫のミネラルウオーターを一気に飲む。一息つくと、電話器周りに書き散らかしたメモ用紙を整理した。相手の電話番号や用件のメモをとるのは私の習慣だ。今のカード騒ぎを書きつけたメモ用紙を順番に並べてみると、あまりにも話の筋が整い過ぎていてもやもやと疑惑が沸きあがって来た。 そこで私は自分から三人それぞれに電話して、再確認してみようと思い立った。電話番号は全部訊いてある。三人の中で一番信用できるのは警察だ。まず新宿警察の川上の番号に電話してみた。何度かけても話中だ。銀行協会にもかけてみたが話中。Aデパートも同じく話中。「みんな話中なんておかしい」、疑惑はピークに達した。 私は104にそれぞれの代表の電話番号を問い合わせ、まず新宿警察に電話してみた。 「ここには捜査二課も川上も存在しません。それはまちがいなく詐欺電話です。すぐ一一〇番で地元の警察に通報してください。あなたの銀行カードは誰にも絶対渡してはいけません」と指示された。私はようやく詐欺だと確信して愕然とした。地元の警察はただちに家へ来ると言ってくれた。 警察を待つ間、念のためと銀行協会に電話したら、田所などという男はいなかった。Aデパートの代表番号にも電話したら、そんな事件はなく、お客様センターも安田も存在しなかった。一連の電話は詐欺だったことが証明されたのだ。 インターフォンが鳴り、地元の警察から二名が到着した。私はモニター画面を通して、警察手帳やバッチでホンモノの警察官と確認してから、オートロックを開錠した。二人ともマスクをかけているが、私服だったので、それを訊ねると、「制服警官が出入りしているとわかると犯人に気づかれます。犯人はこのへんにいるかもしれません」と言われて納得がいった。 私は彼らにことの経緯をしどろもどろに説明し、銀行協会からカードを受け取りに来るという職員を三人で待つことにした。全国銀行協会という組織はあるが、あくまで銀行間の組織で一般人とかかわるようなところではないとも教えてくれた。 年配の警官が、「どうして犯人が、あなたがAデパートのカードを持っていることを知ったのかは不明です。ただ犯人はあなたから銀行通帳の残高を聞き出し、これは銀行カードを奪うに値する相手だと踏んだのでしょう」と言う。たいした額ではなかったが、在職中から貯金していた私の全財産だった。 もう一人の若い警官は厚紙で急遽カードらしきものを作って、封筒に入れた。「職員と名乗る人物が来たら、あなたがこの封筒を彼に渡してください。これを受け取れば我々が直ちに犯人を現行犯逮捕します」と、意気込んでいる。 だがいくら待っても、もう一本の電話もかからない。犯人は近くに来ていて気配を察し、早々に退散したのだろうというのが警察の見解だった。 「このマンションに、防犯カメラは設置されていますか」と訊かれた。正面玄関とエレベーター内とゴミ置き場の入り口にあったはずだ。 「では念のため、マンションの近くに犯人が来ていたかどうか、確認しておきましょう」 私は二人の警察官とともに管理室に行って、今までは気にもしなかった防犯カメラの録画を見せてもらった。 「それらしい人物が、ここにいますね」 繰り返し画面を見ていた若い警察官が、指をさす。私は身を乗り出した。 「マンションの玄関ドア脇に、マスクをかけ携帯を打っている若い男が写っていますね。ずっと立ち去らない。今どき誰でもマスクはしていますが、きっとこの男が犯人で、私達が来たのに気付いて立ち去ったのでしょう」 もう犯人は、マンションの玄関まで来ていたのだと知って、私はぞっとした。 「我々が遅れたら、カードを渡してしまうところでしたね。間に合ってよかった。今や詐欺グループも、単純なオレオレ詐欺から、『劇団並み』の演技力と組織力を備えるようになっているから、電話では判断できないのが当然です。わざわざ警察につかまりに来る犯人はいないから、今回はもう心配はないでしょう。もし今後さきほどのような電話があったら、とにかく110番に通報してください」と言いおいて、警察官二人は帰って行った。 部屋で独りになると、私は床にクタクタと座り込んだ。テレビや銀行では、「オレオレ詐欺注意」のアピールをしているが、まさか子供も孫もいない自分が、その標的になるとは思いもしなかった。ましてこんな手の混んだ新手の詐欺に巻き込まれるなんて論外だ。架空の不審な女に気をとられ、言われるままにすべての銀行カードを渡したら、全財産を失ったかもしれないと思うと、震えがとまらなくなった。 冷静に考えればそのカードの使用限度額は五十万円だったから、まず百万円もの買い物ができるはずはない。最初のAデパートの安田からという電話で、私はこの話は詐欺とすぐ気付くべきだったのだ。 窓の外はすでに真っ暗だった。私は闇の中から黒い雲のように何人もの犯人が湧き出して、襲ってくるような気さえして、ますます怖くなった。窓の鍵を確認し、カーテンをぴったり閉じた。その晩はベッドに入っても気持ちが高ぶってなかなか寝付けなかった。 最近、コロナも変異株が生まれて、勢いをぶり返している。世の中、そのコロナよりも怖いものがたくさんある。それ以降は「もうだまされないぞ」と、毎日電話に向かう。でも詐欺電話も、原稿当選の電話もいっこうにかかってこない。 (了)