惜別
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令和二年一月三十日。あの晩、私はちょうど作家・藤田宜永さんの最新刊『ブルーブラッド』(徳間書店)を読んでいた。四八七ページにも及ぶ大作だったから、いくら面白いといっても一気読みはできない。二日目で、後半に差し掛かったところだった。彼の新刊には、いつも感想文を書いて送っていたので、メモをとりながらページを繰っていた。 その時、つけたままだったテレビのニュースで、藤田さんの訃報が流れた。右下葉肺腺がんのため、長野県佐久市の病院で亡くなったという。六十九歳だった。私は、息が止まりそうになった。一瞬、この感想文はどこに送ったらいいの? これからはどうしたらいいの? と思った。でもしばらくして、最新作が最終作になったのだから、これからはもうないのだということに気が付いた。悲しいというより、全身の力が抜けたような気持だった。 ショックの中で読み終えたこの本は、藤田さんの最後の作品にふさわしいスケールの大きい国際謀略サスペンスだった。彼は冒険小説や恋愛小説を得意としていたが、この作品にはどちらの要素も掛け算で取り入れられている。 「貝塚夫妻が、東京赤坂區福吉町にある邸を出て、軽井沢に移り住んだのは昭和二十年の一月のことである。」という一文で始まるが、私はたちまちその世界に引き込まれた。 時代は戦争直後。舞台は東京、軽井沢、パリ。主人公は、三年半ぶりに本土の地を踏んだ復員兵の貝塚透馬。貝塚子爵の息子である。恋人は、透馬のフランス留学時代の旧友、恵理子。各国諜報機関の謀略が飛び交うなか、二人は思わぬ事態に巻き込まれていく。衝撃のラストまで、息をつかせぬ展開だった。奥付には、令和元年十一月三十日第一刷りとある。藤田さんはしばらく休筆していたから、待ちに待った新作だと思った。新聞広告は見逃したが、ネットで見つけた。書下ろしと信じて手にしたが、巻末を見たら、「小説現代」に掲載された作品に加筆修正したとある。どういう状況で出版されたかはわからないが、十二分に楽しませてくれた作品であることはまちがいなかった。 私が初めて藤田さんに会ったのは、平成十四年の夏の終わり、軽井沢のトークショウの会場だった。彼の「愛の領分」の直木賞受賞記念に、夫人の小池真理子さんといっしょに、壇上に立っていた。私は夏には決まって軽井沢に旅行していたので、たまたま聴きに行ったのだ。正直言って小池さんの作品は愛読していたが、それまで彼の名前も、作品も知らなかった。 彼が、低い声で語り始めた。「愛の領分」における大人の恋の話に始まって、若き日を過ごしたパリの話、東京から軽井沢に移り住んだ話などなど。彼と同じ大学の出身で、パリも軽井沢も大好きだった私は、たちまち共感を覚え、彼の小説のファンになった。その夏の日の太陽の輝きや、高原の風のさわやかさを、今でも思い出す。 トークショウの後のガーデンパーティーで、私は当時出版社勤務だったから、藤田さんに挨拶をし、名刺を渡した。彼は気さくに応じてくれ、それ以来、新刊が出るたびに寄贈してくれた。だが私は編集者としては、雑誌のインタビューをお願いしたくらいで、あまり彼の役にたてないまま定年を迎えた。 にもかかわらず彼は律儀に新刊書を、私の自宅に送ってくれた。退職した編集者にまで気を使ってくれる作家なんて、少ないだろう。彼は初心を忘れない、心やさしい人だと思った。そのやさしさは、最後まで変わらなかった。彼の気持ちに応えるには、読書感想文を書くことくらいしか、思いつかない。私は著書が届くたび、鳩居堂の便せんに長い感想文を書いて送り続けた。 彼は私の感想文に対して、そのつど返事はなかったが、年賀状に必ず「拙著を読んでいただき、感謝しています」といった言葉を書き添えてくれた。年賀状は、小池さんと連名だったが、毎年、元旦に届いた。 彼のような作家でも、自分の作品を丁寧に読んでくれる読者は、大切に思ってくれたのだろう。当初は作家と編集者として、そのあとは一読者としてのそんなおつきあいが、二十年近くも続いたのである。 藤田さんは昭和二十五年、福井市生れ。早稲田大学仏文科中退後、渡仏。エール・フランス勤務ののち帰国し、昭和六十一年「野望のラビリンス」で作家デビュー。その後、「鋼鉄の騎士」で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞特別賞を、「求愛」で島清恋愛文学賞を、「愛の領分」で直木賞を、そして「大雪物語」で吉川英治文学賞を受賞するなど、精力的に執筆活動を続けてきた。 また一年に一回、日本近代文学館主催の「夏の文学講座」で、近代文学の講演をしていた。講演を聴いた後、会場の読売ホールの控室を訪ねて、他社の現役編集者達といっしょに次作の話などを伺う。その「七夕デイト」が、私には大きな楽しみだった。 一方、私は退職後、小説の勉強を始めた。高校から大学時代までは小説家を目指し、同人誌にそれらしきものを投稿していた。卒業後、出版社に就職したので、とても仕事と小説の両立はできない。編集者、記者の道を選んで、小説家の夢は永いこと、中断していた。定年になって、遅ればせながら夢よもう一度と思ったのだ。いつか大人の恋物語を書きたいと、毎日パソコンに向かっていた。 そして平成二十七年、「さばえ近松文学賞~恋話」に応募したところ、私の「夢の夢こそ」が、思いがけなく最高賞の「近松賞」を受賞できたのだ。鯖江の漆器職人と、東京の小料理屋の女主人との切ない恋物語だった。 審査員に、運よく福井出身の藤田さんが加わっていた。福井新聞には、私の作品とともに「今回は特に、文章、構成にこだわって選考に臨みました。その点、『夢の夢こそ』は合格点をあたえられる作品でした。おおむね他の審査員の点も高く、近松賞に相応しいものだと思います」との彼の講評も掲載された。それこそ、夢のような思いだった。 彼が「書く人」としての私を最初に認めてくださったおかげか、その後、最高賞ではなかったが、二、三の文学賞を受賞できた。今度は私がその掲載本を、彼に送る番だった。彼はそのたび、お祝いと励ましの手紙を送ってくれた。 「いつもながら安定した文章力で小さなエピソードを丁寧に描いていて、とても好感の持てる作品でした。ただ恋物語は生々しさも含めて、読み手を選んでしまうところがあるので、苦労があるやもしれません。しかし、その分だけやりかいがあるのではないでしょうか。これからもどんどん書き続けてください」 これは私が「家出志願」という作品で、「藤本義一の書斎~Giichi Gallery~賞」を受賞したときの手紙だ。プロの作家にこうまで言ってもらえて、おおいに感激し、励まされたものだ。 平成三十年の六月、私は藤田さんから、「ここ数年働きすぎたのでゆっくりしようと思っています。書き下ろしを中心に、好きな時に好きな物を書くようにする。その決断がやっとつきました」という手紙をもらった。 驚いたが、もちろんすぐ返事は出した。こんな重要な手紙を私にまでくれる気遣いに、恐縮もした。「大賛成です、どうぞゆっくりしてください、好きな時に好きな物を書いてください、いつまでもお待ちしています」と。でもこの手紙が、彼の最後の手紙になるとは思いもしなかった。そのころ、彼は自分の病気の告知を受け、一年半にも及ぶ、苦しい闘病生活をよぎなくされていたことを、亡くなった後知った。 それ以降、新刊は出なかったし、手紙も来なかった。今年は欠かさず届いた年賀状もなかった。文學講座は、ずっと前に終了していた。私は一抹の不安にかられたが、休筆中だから仕方ないと、自らそれを打ち消していた。でもその不安が、的中してしまったのだ。 思えば私が在職中、がんで長期入院して、やっと職場復帰できたとき、突然、社のデスクに電話があった。あの低い声で「藤田です。元気になってよかったね」と。私はほんとうに感激した。でも私は今回、彼が闘病していたことさえ知らなかった。知っていたとしても何もできなかっただろうが。 自分の書棚を見直してみた。今、私の手元にあるのは、藤田さんの四十冊に及ぶ分厚い著書、十七枚の年賀状、そして封書の手紙とはがきが数通。何年か前の賀状には、「ステキな作品を書き続けてください」とも書かれている。これらだけが貴重な思い出として残ったのだ。もう著書も手紙も、一冊も一通も増えることはない。そう思うと、涙がおさえられなかった。 藤田さんは、私の第二の人生に光を当ててくれた。そして背中をぐいぐい押してくれた。彼が最初に認めてくれた「書く人」への道、まだまだ足を踏み出したばかりだが、私はこれからもよそ見しないでその道を歩き続けたいと思っている。 (了)