小雪さん、いつまでも
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「年末から、お正月も、ずっと食欲不振に悩まされていました。その上、物忘れが頻繁で、娘が『大丈夫?』と心配して、物忘れ外来に予約を取ってしまいました。あ~あ、これからどうなるの、私?」 昨年の年はじめ、これが中小雪さん(俳号)から受け取った最後のメールだった。小雪さんは当時七十二歳。私たち同期の誰よりも若々しく見え、元気そのもので、病気ひとつしたことがない。俳句にも、フリーライターという仕事にも、乗りに乗っていた。そんな彼女を突然襲った体調不良と物忘れ。いかに本人は、不安に駆られていたことか。すでにもう、それ以上書き綴ることさえ難しかったのかもしれない。でも彼女は納め句座にも顔を出していたし、私はそのメールが、本人の命の危機につながるとは思いも及ばなかった。 だが松が過ぎてもどの句会には一度も顔を出さない。私はどうしたのだろうと、急に心配になって電話してみた。「ねえ、診察の結果はどうだったの?」 小雪さんは、「うん」といったまま、言葉がない。「誰だって、七十歳すぎれば物忘れは始まるわ。ほかの病気でも見つかったの?」 やっぱり返事はない。電話口で、荒い呼吸音が聞こえるばかりだ。「私、脳の難しい病気らしいの… 来週、大学病院に検査入院することになった…」 これが彼女との切れ切れの言葉をつなぎ合わせた、会話ともいえない最後の会話になってしまった。 ご家族は、検査のあと病院から、「百万人に一人という脳の難病です。急速に進行していく認知症と言えます。原因はわからないし、今のところ治療法もありません。数か月から、一、二年と思ってください」というショッキングな検査結果を告げられたそうだ。 小雪さんと私は、「ゆっこちゃん」、「やっこちゃん」と呼び合う大学時代からの友人だった。卒業後の職場も同じ出版社だ。彼女は育児誌とシニア誌、私は婦人誌とインテリア誌と、仕事内容や同僚は違ったが、三十数年いっしょに勤めた。そこを定年退職してから、私は小雪さんに誘われて、「童子」に入会したのだ。 不器用な私と違って、小雪さんは恋人を見つけるのも、結婚、出産も早く、難なく仕事と両立させていた。夫が五十歳で急逝してからも、子供たちを育て、仕事を続けて、姑も自宅で看取った。その間、一度も弱音を吐いたことがない。私は友人ながら、立派だと思っていた。 「童子」に入会してからの小雪さんは、水を得た魚のように俳句の力をつけ、みるみる頭角をあらわした。早々に「童子賞」を受賞し、結社誌「童子」の副編集長にもなった。今度は「小雪さん」、「やすこさん」と俳号で呼び合う仲になっていた。五十年という永きに渡る、誰よりも親しい友人だったといえる。 小雪さんは、病院で告げられた時期よりもかなり早く、入院二カ月を過ぎた三月十三日に帰らぬ人となった。みんな驚き、弔問客は180人、供花は十三基にも及んだ。告別式では辻桃子主宰が弔辞を述べられ、小雪さんの句〈潔くレモンサワーで別れけり〉を紹介された。俳人も俳人でない人も感涙した。 「童子」四月号では、主宰が早速「お茶目な小雪さんを悼む」という四ページに渡る追悼文を書かれた。六月号では「春小雪」と題して〈別れとはまるでおもへず春小雪〉、〈生きて在りしこのつかのまを春の雪〉、〈汝が逝きし空の奥より春の雪〉などという追悼句を寄せられている。 主宰ばかりではない。当時の各句会で詠まれた〈ゆく雁にレモンサワーの泡消えて 迪子〉、〈ではまたと言ひしこの道さくら満つ まどひ〉、〈摘草やけふ来ぬ人の好きな道 けい〉、〈残雪のごとくに病みて逝かれけり あぶみ〉、〈初音して別れはふいにあつけなく 真麻〉など、数え切れない追悼句が並んだ。 それほどまでに小雪さんは、「童子」の連衆と親しみ、慕われていたのかと思うと、嬉しくもあり、うらやましいとも思った。 小雪さんが埋葬されたお墓の場所は、娘さんから聞いていたが、なかなかお詣に行けなかった。棺の中の、花に埋もれて微笑んでいるようなお顔を見たのが最後だったから、お墓の前に立つ勇気が出なかったのだ。 それでも秋彼岸過ぎ、迪子さん、真麻さんをお誘いして、池の端にある古い墓地にようやくお詣した。どの墓石の前にも、多分お彼岸に供えたのだろう花々が干乾びていた。その光景に、私は生と死のはかなさを、まざまざと見せつけられたような思いだった。 墓石を清め、秋の花を供えた。線香の青い煙が、静かに墓地に広がっていく。あの空を飛び回っていたような小雪さんが、この墓石の下で眠っているなんて、やっぱり信じられない。悪い夢を見ているようだった。 でもでも、と思った。句会では、いまだに小雪さんの話題が出る。みんなの句帖にも、心のなかにも、今でも小雪さんがいる。この句はいいわね、それは季語を変えたほうがいいわ、語順を逆にしたらなどという、歯に衣を着せない言葉が聞こえてくる。そうして彼女は、私たちの俳句のなかでいつまでも生き続けているのだと思うと、悲しみが薄れるような気がした。 娘さんによれば、小雪さんの実家のある小淵沢の墓地にも、本人の生前の希望で分骨したという。そこに〈それぞれの涼しき石に座りたる〉という彼女の小さな句碑を建てたそうだ。夏になったら、南アルプスや八ヶ岳の望めるその墓も訪ねたいと思う。きっと小雪さんは、そこでまた俳句を詠み続けているはずだから。