届かなかった年末状
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十二月に入って、そろそろ年賀状の準備を進めながら、S先生からまだ「年末状」が届かないことに、ふと気が付いた。でも、きっと新しく進めているという本の執筆にかかりきりなのだろうと、心配もしなかった。 S先生は、人と同じことをするのが嫌いなかたで、「年賀状は、正月に一斉に届くから、誰も一枚一枚よく目を通さないだろう。それなら、年末に、近況を綴った年末状を送ったほうが、きっと読んでもらえる」と、もう何年も前から、十二月になるとすぐにその便りが届いていた。 「師走だより」というタイトルで、その年、先生が思ったこと、趣味の汽車旅のこと、執筆している著書や記事のこと、そしてちょっぴり自分の健康状態にも触れた、カラー写真入りの洒落た葉書だ。慌ただしい年末に、それを読むのが楽しみになっていた。 でも年賀状の投函日になっても、それが届かない。私はさすがに気になって、先生に電話をかけてみた。奥様が出ていらしたので、すぐ先生に代わるだろうと思ったら、少し間をおいて、「この六日に、主人は安らかに息を引き取りました。主人の遺志で身内だけで見送りました。生前はお世話になり、ありがとうございます」とのお返事。私は息を飲んだ。 奥様は言葉が続かず、居合わせたお嬢様が、病気の急変や、最期の模様を説明してくださった。五年半人工透析を続けたが、このところ体の各所にトラブルが生じ、最後は多臓器不全ということで眠るように亡くなったという。享年八十六歳。教師としても、執筆家としても、立派な一生だったと思う。私は受話器を置きながら、涙があふれてきた。 S先生は、私の都立高校時代の国語の教師で、三年生の時の担任だった。私が入部していた「文学部」という部活の顧問でもあった。従って五十年来のおつきあいになる。色白でふっくらとした顔立ちで、「マシュマロ」というニックネームで生徒に親しまれていた。 当時、三十代の先生から、私は日本文学の魅力を熱く教えていただいた。漱石も鴎外も康成も、そして芭蕉も晶子も、先生を通して私の頭に水のように沁み込んだ。 先生は、その頃、小学館のジュニア短編小説に佳作入選したりした私を、国語教師として応援してくださった。大学の奨学金の世話や、出版社に入社した折には、両親の代わりに面接にもお付き合いいただいた。今、私が小説や俳句など、文学の世界を楽しめるのも、S先生のおかげといっても過言ではないだろう。 私は国語は満点でも、数学はひどい点数だった。先生はその答案用紙を、裏返して渡ししてくださる茶目っ気も持ち合わせていた。私を「ひいきしている」と噂されたこともあったが、それは単なる教師としての思いやりだったろう。多感な十七歳の少女は、先生に淡い思いを抱いたこともあったが、その思いはすぐ現実的な男子生徒へと移っていった。 先生自身は、理系の大学へ進み、文系に転じて国語教師になったという。都立高校から、定年を待たず予備校の教師になり、六十八歳の時、教壇を降りて文筆業に専念した。 文学と合わせて、鉄道が趣味で、ユニークな鉄道エッセイストとして活躍。最初の著書『汽笛のけむり今いずこ』(新潮社)は、二〇〇〇年に交通図書賞を受賞。その後も続けて鉄道エッセイを出版した。合わせて交通新聞などにも寄稿していた。 社会人になってから、私も級友達も、先生とは疎遠になっていたが、ある級友の提案で、先生の還暦祝いを機に、旧交を温めるようになった。古希を迎え、喜寿、傘寿も祝うようになった頃、先生は人工透析を受け始めた。いつその日が来るかもしれないと、私達十数名は、先生を囲んで毎年クラス会を開くことにした。自分達もいつしか古希を過ぎていた。同期の訃報を、ポツポツ聞くようにもなった。 定年退職後、私も先生に倣って、自分の書きたい小説や俳句に専念しようと思った。S先生と、「先生」と「生徒」の関係も復活した。三年前、やっと短編小説を自費出版したときには、先生もたいへん喜んで、お祝いに書店でその本を何冊も注文してくださった。 最近まで、私の作品が小さな賞を受賞したり、新聞、雑誌に掲載されると、必ず先生にコピーを郵送していた。時々、俳句の雑誌も現物をお送りしていた。手抜きしてファックスしたりすると、「読みにくい、郵送しなさい」と、叱られる。それらが届くと、必ずあたたかで的確な批評の電話がかかってきた。 さすがに近頃は、私のほうが先生のお世話をすることのほうが多くなった。時には、先生が手書きしたものを、パソコンで入力する手伝いをしたこともある。これも恩返しの一つと、できるだけのことをしてきた。 秋ぐち、「歌ひながら汽車旅」(仮題)という最後の本を進めているという話を聞いた。「最後なんて、まだまだ」というと、「自分の終着駅は近そうだけれど、生きているうちになんとかもう一冊、まさに『生きているしるし』にまとめたい」とおっしゃる。自分でも、死期を予感されていたのかもしれない。 「印刷所に入稿した。初校がでたら、校正を頼みたい」というのが、先生の最後の電話になった。今ごろ天国で、先生自ら未完の著書に赤字を入れていらっしゃるのだろうか。 年末、奥様からていねいな喪中欠礼状が届いた。とうとう終着駅から旅立たれてしまったS先生からは、もう二度と「年末状」も電話も来ることはない。そう思うと、言いようのない寂寥感に包まれた年明けだった。 師の逝けり蝋梅遠くかをりくる やすこ