あるカメラマンの「メール偲ぶ会」
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私が勤めていた出版社の元写真部カメラマン、Nさんが亡くなって一年になる。享年七十七歳。私をはじめ、当時の記者仲間は誰も、彼が病気だったことも、亡くなったことも知らなかった。最近になって、元写真部の一人から、訃報を聞いた。 リタイアして十年余。このところ、社の先輩達の葬儀や偲ぶ会が続く。でも私達が若かった頃、一番身近で仕事をし、お世話になったNさんに、一言もお別れが言えなかったことは、とても心残りだった。彼は、私達の心に春の風のようなぬくもりだけを残して、いつのまにか目の前から消えてしまったのだ。 私は当時の記者やカメラマン仲間にNさんの訃報を伝え、メールでそれぞれの思い出を語り合おうと呼びかけた。「メール偲ぶ会」だ。私達も年はとってきたが、会社でパソコンを習ったので、誰でもメールはできる。 反応は早かった。数日後には二十人近くの人から、彼を悼む言葉とともに、私も知らないエピソードが続々届いた。彼の飾らない、ユーモラスな人柄が偲ばれ、目頭が熱くなる。発信者には早速それらのメールを転送し、なつかしい思い出を共有した。「皆、七十代、八十代で、わざわざ集まるのもたいへんだから、こんな偲ぶ会もいいね」という返信も来た。 昭和三十年前後、私達がいた出版社には、夜学に通う中卒の社員がいたと聞く。男子は東北からの集団就職で、秋田県横手出身のNさんもその一人。社員寮では夢も悩みもお国訛りで語り合い、ホームシックを癒していたに違いない。寮生の務めとして、朝食前には本社周りの清掃、夜は社内に残業の夜食アンパン配り、電話の交換手、宿直などをこなしつつ、文化祭、社員旅行、シャッターズ(写真部の野球チーム)などの社内行事も楽しんでいたという。当時の少年社員としては、比較的恵まれた環境の中で、それぞれ仕事を身につけ青年社員に成長していった。 同郷に写真界の大御所、土門拳がいるが、写真についてはまったくの素人だったNさんは、先輩たちの指導のもとに、写真部の暗室作業専任としてスタート。夜間の写真大学にも通い、写大出のカメラマンに引けをとらぬプロとして、雑誌のページを担当するまでになった。無口な彼が苦労話を語ることはなかったが、一方ならぬ努力をしてきたと思う。そして彼は彼らしく、定年までなんの肩書もなく、地道にカメラを手に、現場にあってシャッターを押し続けてきたのだ。 私自身は、Nさんとは入社早々から、婦人雑誌の編集部で、新人記者とカメラマンとして、いっしょに仕事をしてきた。緊張感いっぱいの撮影現場で、「そのブラウス、うちわみたいだね」と怖い先輩女性に声をかけたNさん。彼女は絞りのブラウスを着ていた。でもそれを褒め言葉と受け取って、その場の雰囲気がぐっとほぐれる。そのように彼のひとことで、場が和んだり、笑いが生まれることが何度もあった。 私も当時は二十四歳。Nさんは七歳年上で、既婚者だった。お嬢さんが生まれた時、「『未絵』ちゃんというのはどう? 将来、絵のような女の子になるように」といったら、そのまま採用してくれた。あとでうれしそうに、赤ちゃんの写真を見せてくれたりした。 Nさんは、口癖のようにこう訊いた。「きみはいつ結婚するの?」→「まだ結婚しないの?」→「もう結婚しないの?」と突っ込みは変わって行ったけれど、それほど永年に渡るつきあいだったし、何でも言い合える、ざっくばらんな関係だった。 寄せられたメールからいくつか。同僚の女性記者は、Nさんの車で甲府まで取材に行ったことがあったという。「締め切り明けで、度々睡魔に襲われ、うとうとしては、ハッとするを繰り返していたら、『もう、甲府に着いちゃったよ、な~んてね』と、笑顔で冗談を言われた」と。私も、一度も彼の不機嫌な顔を見たり、怒った声を聞いたことはない。 後輩の男性記者も、新人時代、担当カメラマンがNさんだと、心底ホッとしたという。決まり文句は「念のため2パターン撮っておくね。どれにするかはデスクとよく相談して」。撮り直しの指示が出たときも、文句一ついわず、淡々と対応してくれたそうだ。「ハハハではなく、フフフと笑うNさん。おしゃべりではなかったけれど、短く、ボソッと一言。それが結構シニカル。一癖ありは当たり前の写真部の中で、おそらく一番情緒の安定していたカメラマンだったと思う」と、言う。 また後輩の女性記者は、十年の在社期間、撮影の仕事はほとんどNさんといっしょだったそうだ。「その間、新人でものびのび仕事ができたのは、細やかな心遣いをしてくれる彼と組めたからだ」とのこと。 京都で仕事を終え、串揚げ屋のカウンターに並んでいたら、同席のおじさんがちょっとうらやましそうに、「あんたらどういう関係?」と聞かれたとか。二十三歳の女性と、四十歳の男性の仲の良い組み合わせは、「ワケあり」と思われたらしい。「十日間に及ぶ海外出張も気まずい思いは一切なし。社屋の屋上でお見合い写真まで撮ってもらった」と、彼との思い出は尽きないとメールしてきた。 その後、私は十八年いた婦人雑誌から、インテリア雑誌の編集部に異動になった。五十代になったNさんも、婦人雑誌から園芸雑誌の専任カメラマンになった。それ以来、彼といっしょに仕事する機会はなくなっていた。 「入社してから、彼が退社するまで、親よりも、妻よりも、長~いつきあいだった」というのは、同じく婦人雑誌から園芸編集部に異動した男性記者。当時、札幌から、鹿児島、沖縄まで、重いカメラ、三脚、ストロボ、大きなバック紙を入れた筒を両手と肩に担いで、二人でどさ回りをした。「辛いことが多かったが、仕事が終わると息抜きの時間も。寿司屋と劇場。真面目一方に見える彼も、そういうことが嫌いではなかったらしく、男同士、全国各地の寿司屋と劇場を回った時代もあった」という。 若手女性園芸記者は、Nさんにほぼ一年かけて花の品種写真を撮ってもらったそうだ。セリの終わった人気のない市場の片隅で、黙々と花を撮り続けながら、「これでどうだ! ドウダンツツジ」というお決まりのおやじギャクが出る。彼女はそれを聞くと、妙に安心したと書いてきた。 その頃の園芸雑誌の編集長からは、「Nさんには、おもにプロセス写真などを担当していただいたが、実用誌の中では欠かせないページ。読者にとっては、何度も真剣に目を通す貴重な写真だった。今でも書店で、図書館で、読者の本棚の中で、彼の撮ったそういう写真が役立っていると思う」とのメールが寄せられた。 元写真部の一人は、「Nさんは会社では私の先輩だったが、同時に大学では私の後輩。ある意味、微妙な関係だったが、彼は、マニアックというべき私の“写真機”談議にいつも辛抱強く付き合ってくれた。入社したての頃、高価なプロ用のカメラがどうしても欲しくて、ボーナスの時、Nさんがボデイだけ、自分が交換レンズだけを手に入れ、共同で使っていた。でもどちらかというと、私のカメラバッグに入っている時が多かったかもしれない。そんな、カメラマンとして、書きつくせない多くの思い出を残してくれた人だった」と言う。 また、社員寮で同じ釜のメシを共にした元カメラマンは、「死してなお女性記者に慕われているNさんに、無駄に長生きしている輩は少なからず嫉妬している」などというメールも寄せてくれた。 私がそんなNさんと、最後に言葉を交わしたのは、五年以上も前の会社のOB会だった。それが最後の会話になるとは思いもしないで、笑いながら「お互い年をとったね」と言い合った。私の結婚のことについては、もうふれてこない。会話は長続きしなかった。 ご遺族にこれらのメール全文を印刷して郵送したら、なんの音沙汰もない。皆が言いたい放題を書いたものを、そのまま送ってしまったから、気を悪くされたのではないかと、内心、心配していた。少なくても「ワケあり」や、「劇場」の部分は、削除すべきではなかったかと。 一ヶ月ほど経った頃、待ちかねた奥様からのお手紙が届いた。「体調をくずしていたところへ、年明けに転んで腕の骨にひびがはいってしまい、臥せっていました。でも最近、リハビリも始めて、ようやく快方に向かっています」と言う。思えば、奥様だって相応の年齢だと気付いた。 続いて、「在社時代、主人が大変お世話になり、ありがとうございます。皆様からのお言葉、興味深く読ませていただきました。主人の会社での姿は知らないことばかりだったので、たくさんの思い出話は、とても新鮮に感じて、気持ちが明るくなりました。いろいろなお心遣いに深謝いたします。皆様によろしくお伝えください」と、結ばれていた。私は、メールをそのまま全部お届けしてよかったと、やっと胸をなでおろした。 いま改めて私は思っている。Nさんには、ホテルやレストランでの大袈裟な「偲ぶ会」より、こんな皆の心のこもったささやかな「メール偲ぶ会」のほうが、ふさわしかったと。彼もきっと天国で、「ふふふ」とあの特徴ある笑い声をたてて、読んでくれているのではないだろうか。 (了)