婦人雑誌『主婦之友』が俳句に果たした役割
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高浜虚子は、自分の俳誌「ホトトギス」の中に、「婦人俳句界」という、婦人向けの俳句欄を作り、女性俳句の大衆化の道を開いた。その草創期から長谷川かな女なども加わり、女性俳句隆盛に寄与したという。 さらに虚子は、業界専門誌である「ホトトギス」の世界のみにとどまらず、一般の女性雑誌と手を組むことで、さらに大きく女性俳句を広げていこうとした。しかもその雑誌が、私が永年勤務した出版社ものと知って驚いた。 主婦之友社は大正五年、石川武美によって創業。翌年大正六年に、「家庭の幸福と婦人の地位の向上」を理念とした婦人雑誌「主婦之友」を創刊した。当時は、上流の女性を対象とした「婦人画報」、「婦人之友」、「婦人公論」などの女性誌がマーケットを競っていた。そのなかで、大正時代に急増した中流の女性たち、「主婦」をターゲットとしたことが功を奏し、「主婦之友」は昭和初期には百万部を超えるという日本一の国民的雑誌として成長していくのだ。(昭和二十八年、社名、雑誌名を、「主婦の友」と変更)。 「主婦之友」創刊からの石川の時代を読む目は、確かなものであったと言っていい。しかし、俳人虚子が、他誌ではなく、「主婦之友」をマークし、早くも大正十年に進んでタッグを組んだことは、注目に値する。石川と同じく、虚子もまさに「主婦」に狙いを定めたのだ。虚子は偉大な俳人だったが、加えて時代を的確に見る目も持った才人でもあったのだろう。 私は、あの虚子が、「主婦之友」に自ら原稿を書き、読者の応募した俳句の選をし、のちには弟子を選者として送り込んだという証を、どうしてもこの目で確かめたくなった。早速、御茶ノ水の石川武美記念図書館へ、その足跡を調べに行った。バックナンバーをつぶさに調べてみたら、雑誌「主婦之友」大正十年十二月号に、虚子の「俳句のはなし」という文章が、三ページに渡って掲載されている(抜粋)。 「俳句といふものは先ず斯んなものです。 なつかしきしをにがもとの野菊かな 蕪村 しをには紫苑のことで、その紫苑の下に野菊が咲いてをる光景を見ますとものなつかしい景色である。畫に書いて見ても紫苑の下に野菊の咲いてゐるのは、似寄ったやうな花であって異った趣のあるところがなつかしくやさしい光景である。そこを言ったのであります。蕪村は畫家でありますから自然こんな観察ができたものと思ひます。かういう風に寫生的にできた句が一番間違ひがなくて宜しいのであります。 ほかにも、〈小鳥來る音うれしさよ板びさし〉、〈此森もとかく過ぎけり鵙落とし〉、〈秋雨や水底の草を踏みわたる〉など、蕪村の句ばかり、合わせて十句を解釈している。 (これ以降は未掲載ですが、続けてご紹介しておきます)。 次号の、大正十一年一月号に新設された「俳句」欄に、虚子選として、四十三句が選ばれ、合わせて一ページに掲載されている。虚子は三年に渡って自ら選者を続けた後、「ホトトギス」五人衆の一人、村上鬼城に選者の座を譲っている。その間に、全国の主婦から寄せられた数々の俳句を読み、選び、現在では常識ともなっている「読者投稿」俳句欄の基礎を築いたのだ。そのあとも選者は、長谷川零余子、渡辺水巴、矢田挿雲と続くが、「俳句」欄は昭和九年の八月号から日中戦争などの影響で五年間中断。昭和十四年の後半から、水原秋桜子の選で復活する。 「主婦之友」は戦時中も「俳句」欄を継続。敗戦当月の昭和二十年八月号でもわずか十三ページのという紙数の中で、入選者の名前だけは発表、次号への投句募集もするという感動的な姿勢を見せている。その後も、選者には、星野立子、中村汀女、石田波郷、中村草田男といった俳句界におけるそうそうたるメンバーが名を連ねていた。そしてこの「俳句」欄は、「主婦の友」昭和五十九年七月号まで、なんと六十一年間に渡って連載されたのである。最終回の選者は中村汀女であった。(中略) 最後に、俳句界の現状だが、朝日新聞平成27年7月28日の「遠景近景」欄(宇佐美貴子氏筆)には「俳句は今や世界の文化となりつつある」と、書かれている。教育現場での俳句の授業の増加や、各種俳句大会、テレビの俳句番組などで、俳句人口の裾野は広がりつつある。「俳句をユネスコの無形文化財に」という声さえあるそうだ。紆余曲折はあったが、まさに俳句にとっては喜ばしい時代が到来したと言ってもいいのではないだろうか。