三十五年振りの再会
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JRの御茶ノ水駅の改札を出ると、ちょうどスクランブルの信号が変わったばかりで、交差点を渡る人、渡って来る人で、ごった返していた。ようやく始まった駅舎建て替え工事の騒音も混じる。神田川の臭いも漂ってくる。雨の日も風の日も、毎日通勤し、退職後も通院や書店巡りなどで、月一、二回は必ず降り立つ街。大学、予備校、病院、古書店、楽器店、スポーツ用品店が並び立ち、いつも賑わっている街。雑然としているが、私にはなんともなつかしい街だった。 その日は、駅から明大通りを駿河台下に向かってまっすぐ足を進めた。通り沿いの日本大学病院内の喫茶コーナーで、Tと待ち合わせをしていたからだ。私は新しい十一階建ての病院の中へ入って、喫茶コーナーをめざした。 約束の時間前だったが、辺りを見回したら、ぽつんと中年の男がいた。私は「Tさんでしょ」と、恐る恐る呼びかけた。その男は怪訝そうな顔をした。彼の後ろから、初老の男が笑顔で声をかけてきた。「いやあ、お久し振りです。Tです。Tですよ」短い髪はすっかり白くなり、頬も首もたるんでいたが、口元からのぞく白い歯並びは、確かに当時のままだった。三十五年振りのなつかしい再会だ。外国人ならここでハグするシーンだが、私達はその喫茶コーナーの窓際に、向い合って席をとった。 「今までどうしていたの?」 「お元気そうですね!」 時計はくるくると早戻しされる。改めてよく見ると、Tの表情からも、話し方からも、当時の面影が蘇ってくる。年を重ねた私を見て、きっとTも同じ思いだったろう。 三十五年前、私は三十代、七歳年下のTはまだ二十代だった。共に出版社の婦人誌の編集部生活課に在籍し、夜遅くまで仕事に打ち込んでいた。 私は、大学卒業後、昭和四十三年にその出版社に入社した。当時は、記者としてようやく力がついてきた頃で、出す企画は面白いように編集会議を通り、取材も順調で、私の原稿が毎号誌面を飾った。T達、後輩記者の指導にも当たっていた。私は髪はソバージュにジーンズ、Tは短髪で白いTシャツがはちきれんばかりの、元気な若者だった。 その頃は健康食品ブームで、アロエ、青汁、海藻などに始まって紅茶キノコまで、毎号のように特集を組んだ。私はT達と、生産地を訪ねたり、体験者に取材したりして、原稿をまとめたものだ。紅茶キノコに至っては、編集部で菌体を培養し、読者に無料で送付するサービスまで行った。あの甘酸っぱい臭いが、今も鮮やかに思い出される。 昼休みには、会社の近くの喫茶店「モーツアルト」に皆でたむろした。愛想のいいマスターがコーヒーを淹れ、エプロン姿の美人の妻が、サービスしていた。ガロの「学生街の喫茶店」が街に流れている時代だった。最近になっても、あの歌を耳にすると、今はもうないその店が目に浮かぶ。 Tは、仕事のほか、組合活動にも積極的だった。六十歳定年制度の協定が結ばれたり、妊娠中の社員について、有給の妊娠休暇が保障されたりと、婦人誌を中心にした本作りと、女性社員の多い出版社ならではの組合活動だった。彼は仕事が終わると、組合事務室に足繁く通ったりしていたようだ。 それでもみんな若かったから、どんなに忙しくても、それぞれ恋をしていた。私の相手は大学時代からの男で、らちの明かない恋だったが、Tは、社内の別の部署の女性と恋をして、結婚したばかりだった。 数年がたち、Tは、福岡の実家の都合で、家業を継がねばならなくなった、雑誌記者として活躍することが夢だったTにとっては、さぞ無念だったろう。だが長男で責任感の強いTは、結局、夢より家を選んで、妻を伴って故郷に帰った。それ以来、私はTと一度も会うことはなかった。 Tはこの秋、組合活動をしていた頃の先輩のお別れの会に列席する為、久々に上京したという。そこで共通の同僚から、私の連絡先を伝え聞き、電話をくれたのだ。 私には、互いに若かった頃の同僚と会うのは、その時代が津波となって押し寄せて来るような思いだった。Tとの再会は、単にT個人に会うというより、自分達の遠い日々との再会にほかならなかった。もっと言うなら、元気いっぱいで、希望に燃えていた、輝かしい三十代の自分に会うことでもあったのだ。 私は再会の場に、旧社屋の跡地に建った日大病院内の喫茶コーナーを指定した。当時の残像はまったくないが、共にここで働いた、私達には忘れられない「場所」であったから。 周囲の建物は、ほとんどが新しく建て替えられていた。窓の外を見ているだけでも、私達の思い出話は、湯のようにあふれてきた。 「YWCAはまだ残っているんですね。リニューアルされたようだけれど」 「あの角に『ファースト』という喫茶店があって、よくサボりに行ったわね」 「向かいの明治大学の屋上ではいつもブラスバンドが練習していて、うるさかったな」 私達の出版社は、大正六年、「家庭の幸福と婦人の地位の向上」を理念とした婦人雑誌を創刊した会社だった。大正十四年、高名な建築家ヴォーリズの設計による社屋が、駿河台一丁目に設立された。建築史にも残る瀟洒な建物だった。Tの在社当時、社屋はすでに五十年近くたち、老朽化していたが、古い建物ならではの風格があった。 社屋に上る外階段は大理石で、受付横のエレベーターは、古いフランス映画に出てくるような手動式だった。がらがらと折り畳み式の扉を開け、乗り込むとまた扉を閉め、目的の階のボタンを押す。そうするとおもむろにエレベーターが上昇するというものだった。 四階にあった編集部は、長い長方形の部屋で、ずらりとデスクが並んでいた。生活課は、中庭に面した一角にあった。 「僕のデスクはこのへんにありました」 「私のデスクは、その向かい。その隣には、あの怖いF女史が座っていたわね」 「編集長は、はるかかなたでした」 「中庭にはいつも鳩が集まっていたわ」 私達は、その病院の喫茶コーナーで、シャドウボクシングさながら、指をさし、立ったり座ったりして、当時の編集部を再現させた。時間は、たちまち駆け抜けていった。 Tが退社した後も、毎年新人が入り、編集部は変わっていった。私は四十代に、その婦人誌の副編集長になり、その後インテリア誌の編集長となった。五十代には出版部に異動になり、部長に昇進し、六十歳で定年退職した。三十六年にわたる順調な仕事人生をまっとうし、平成十六年に定年退職した。だが仕事を優先した結果、若い頃の恋は破綻し、とうとう独身を通してしまった。そんな女性が多数いる会社でもあった。 福岡に帰ったTは、家業を継ぎ、もり立て、三人の子供をなし、今や七人の孫がいるという。父親を看取り、今は年老いた母親の介護をしているとか。上京の機会もめったにないそうだ。 その後、会社は大きく変化した。出版不況の波をまともに受け、駿河台にあった社屋は日本大学に売却され、取り壊された。本社は平成二十五年、江戸川橋に移転。看板雑誌だった婦人誌は、数年前に休刊した。 その日もTは、午後の飛行機で帰らなければならないという。いつまでも話は尽きなかったが、私たちはまたの再会を固く誓って別れを告げた。 Tが去った後、私は駿河台下から神保町へと、足を延ばした。この界隈は、昭和四十四年一月、学生による授業料値上げ反対、学園民主化などを求めた学園闘争のメッカとなり、カルチェ・ラタンと呼ばれた。全共闘による東大安田講堂立てこもり事件と呼応して、社の目の前の道路には、学生による投石に対して、機動隊が出動して催涙ガスを撒き、会社の窓ガラスも割れ、私達は裏口から眼をはらして帰宅した。私が入社して間もない頃だったと思う。今、この道を歩いている多数の学生達は、そんなことを誰も知らないはずだ。 神保町まで足を進めると、昔と変わらず営業している食堂、喫茶店、パチンコ店などがいくつか残っていた。私は「柏水堂」という昔からあった洋菓子専門店で一休みした(平成二十七年三月末、閉店)。 私は東京生まれ、東京育ちで、ふるさとがない。だから三十六年通い続けた御茶ノ水は、そんなさまざまな思いが詰まった、かけがえのないふるさとである。社屋はもうないが、路地の隅々まで、思い出が沁みついている。ふるさとと言えば、山や川がつきものだが、私には、あえて山と言えば「山の上ホテル」であり、川と言えば神田川だった。 来年は、その出版社も創業百周年を迎える。OB会を開く予定もある。一つの時代を共に過ごしたなつかしい面々が、またこの地に参集するだろう。今の御茶ノ水ではなく、それぞれがもりもりと仕事をし、誘い合って飲みに行き、カラオケで盛り上がったあの頃の御茶ノ水に。私だけでなく、彼らにとっても御茶ノ水はかけがえのないふるさとに違いないはずだから。