「今夜でもいいよ」
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昨年十二月二十六日、私の勤めていた出版社の大先輩、F女史が亡くなった。八十四歳で、死因は心筋梗塞だった。知らせを聞いて、私は、当時の同僚と共に、早速雑司ケ谷の斎場へ駆けつけた。通夜は二十八日、告別式は二十九日と、年末の多忙な時期にもかかわらず、六十人以上の人が参列した。「ここ十年は、二つの人生を一つにして生きてきました。これからは……」という、ご主人の最後の挨拶が、耳からはなれなかった。 葬義では、ご主人に満足なお悔やみも言えなかったので、私は一月になってから、一人でご自宅にお線香を上げに伺った。お住まいは、JRの大塚駅から都電の線路に沿って十分、春日通りに面した古びたマンションだった。 私が入社した時、ご主人はその出版社を退社したあとだったので、彼に会うのは二回目、直接話をするのは初めてだった。 現役時代、私はF女史から、いやというほど彼の話を聞かされていただけに、少し緊張して、インターフォンを押した。 F女史は、私が駿河台にある出版社に入社して以来の実質的な指導先輩だった。当時彼女は、四十代そこそこ。美人でロングヘアをきりりと結び、白いパンツスーツ姿で社内を闊歩していた。皇室記事や、読物記事、生活記事などを担当する、花形記者だった。かつて総合雑誌に、「今、活躍する婦人記者」として、ポートレート入りで、取り上げられたこともあったそうだ。 大学を卒業したばかりの私は、婦人誌の生活課に配属されたが、F女史に一から十まで指導を受けた。取材の仕方、撮影の段取り、原稿の書き方を、徹底的にたたきこまれた。加えて、食堂での箸の上げ下ろしから、挨拶の仕方、電話のかけかたまで、婦人記者としての心得を事細かに注意された。「どうしてそこまで言われなくてはいけないの?」と、私はトイレで一人泣いた。 数年すると、きびしい指導のおかげで、私も記者としてなんとか独り立ちし、F女史の片腕とも呼ばれるようになった。そうなると彼女は、私にすっかり心を許し、自分のプライベートな打ち明け話までしてくれるようになった。 当時、F女史は、苦しい社内恋愛をしていた。相手は、四歳年上の読物課の記者だった。二十代に会社のダンスパーティーで親しくなった二人は、運命的な恋に落ちた。だが彼女にも、彼にもそれぞれ伴侶がいた。彼女は夫ときっぱり離婚して愛をまっとうしようとしたのだが、彼の妻は妊娠中だった。思い余った彼女は、彼の自宅を突然訪ね、玄関先で、睡眠薬のブロバリンを飲んだ。命は助かったものの、事態は反って悪化した。妻は「絶対離婚しない」と、宣言した。それから人目を忍ぶ不倫が延々と続いたという。 F女史が初心を貫き、彼も調停離婚にこぎつけて、結婚できたのは、彼が社をやめて編集プロダクションを始め、彼女も定年を迎えた、六十代になってからだった。披露宴には私も出席した。彼女のやや誇らしげで、でも恥じらいののぞく笑顔を初めて見た。それから連絡がないのは、幸せな結婚生活をおくっている証拠とばかり思っていた。そして年賀状だけのおつきあいになっていた。 玄関でご主人は、「どうぞ、どうぞ、奥へ」と、気さくに私を迎え入れてくれた。リビングは、お線香と花の香りに満ちていた。F女史が昔、取材時に旭川で買い求めた、見慣れたユーカラ織の敷物の上に、遺影や、遺骨、お花、供物などが所狭しと並べられていた。遺影は、葬儀の時使われた若い頃の美しい写真の他にも、記者として活躍中のいきいきしたもの、闘病時の痛々しいものなど、何枚か飾られていた。周囲にも、アルバムや、弔電、手紙などが、山積されていた。戒名は、「妙法唯唱院妙乗日恭信女」となっていた。私はお線香をあげたとき、「ああ、彼女は本当にこの世からいなくなったのだ」と、万感の思いが胸に込み上げ、しばらくは何も言えず手を合わせていた。 「女房が生きているうちに、皆さんに声をかければよかった。記者時代は華やかだったのに、晩年はずっと二人きりだったから」と、ご主人は頭を振ると、結婚後の暮らしをぽつりぽつりと語り始めた。 二人の幸せを、病魔が襲ったのは、結婚して何年もたたない頃だったという。彼は肺がんに倒れ、手術をしたが、早期発見だったので一命はとりとめた。時を同じくして彼女に、パーキンソン病の兆しが現れた。彼女は看護師の入室にも嫉妬し、彼の病床に一日中付き添って帰ろうとしない。パーキンソン病初期のうつ病の症状が始まったのだ。 彼がようやく回復して退院したころから、彼女の病気の症状は顕著になり、手足が小刻みにふるえ、筋肉が強張る、動作が遅くなるなど、じわりじわりと病気は進行し、体が思うように動かなくなってきた。食事をこぼしたり、路上で転倒したりすることも、しばしばだったそうだ。 マンションにはいたるところに手すりをつけ、医療用ベッドを入れた。彼女は得意な料理も作れず、コンビニ弁当に頼る日々が続いた。さらに不幸が重なり、彼に腹部大動脈瘤が発見されたが、このときも手術でなんとか助かった。でも彼女は、彼が自分より先に死ぬとは考えてもいなかった、彼が自分を守ってくれる唯一の人だと信じ切っていたと、彼は当時をなつかしむように、淋しそうに微笑んだ。 数年前から、彼女は糖尿病や心臓病も患い、胸にステントを二本も入れて、大病院や近所の病院をかけもちで、入退院を繰り返した。彼は、ヘルパーさんの手も借りながら、彼女の食事や身の回りの世話をなんでもしていた。まさに、老々介護の日々だったが、夫婦なら当たり前のことだと思っていた。ヘルパーさんには、「病気になると、仲のいいご夫婦でもうまくいかなくなるのに、お宅は反対ですね」と、感心されたそうだ。 彼女は、一、二年前からは、飲み込む力も弱まり、胃瘻を設ける手術をしたが、食べ物は欲しがる。だからぶどうやメロン、柿の熟したものなどを、少しだけ口に入れてやると、とても喜んで、もっと、もっととせがんだという。足元もおぼつかないのに、「お金をちょうだい。ぶどうを買ってくる」と、病室を出て行きかけたりもしたと、彼は苦笑した。 その頃、たまたま雑司ヶ谷霊園の近くの墓地の募集広告が、彼女の目についた。闘病生活が長びき、自分の死期を予感したのか、彼女は強く墓を希望した。彼は、まだ早いと思ったけれど、とにかく墓地と、墓石を購入した。墓石には、二人の願いでもある「平和」という文字を入れてもらった。「彼と同じお墓に入りたい」という彼女の永年の望みが、やっと形になったのだ。彼女は、安心したように、彼の手をぐっと握ったそうだ。 「いつまで、お二人は会話が通じたのですか?」という私の質問に、彼は「亡くなる十二月のはじめまで」と答えた。消灯時間になって、彼が病院から帰る間際に、「明日、また来るからね」と声をかけると、彼女は、「今夜でもいいよ」と甘えて別れを惜しんだと言う。それが彼女の最後の言葉になった。彼女は、死ぬまで、若い頃と少しも変わらず、彼をひたすら慕い続けたのだ。 翌日、彼女は誤嚥性肺炎を併発し、救急車で大病院のICUに搬送された。一週間ほどで、どうにか退院できた。彼は「正月くらいは、自宅で過ごさせたい」と願ったが、近所の病院で、「その頃はヘルパーさんも手薄になるから」と、入院を勧められた。その病院で、彼女は再度肺炎にかかり、心筋梗塞で帰らぬ人となった。十八年の長きに渡る闘病生活に終止符が打たれたのだ。 彼女には、昔から、「早く彼といっしょに暮らしたい、結婚したい、子供もほしい」と聞かされていた。思えば彼女は、愛した人と添い遂げ、女房、女房と言われ、病気になれば手厚く看病され、最期を看取ってもらえたのだ。子供には恵まれなかったけれど、なんという幸せな一生だったのだろう。仕事一筋に過ごし、いまだ独り身の私には、うらやましくさえ思えた。 私がそう言うと、彼は呻くように言葉をついだ。「ここ十年くらいは、女房の介護が生きがいだった。女房にしてあげたかったことが、まだまだあった。それを思うと、今は後悔ばかりだ。時々、頭が割れそうになる。とにかく生きていてくれるだけでよかった。生きていることと、死んでしまったのとはまるでちがう。正月はさびしかった」と。 そしてじわっと涙をにじませた。私は次の言葉が出なかった。彼はもう八十八歳だった。 F女史の負けず嫌いな一面を良く知っていた私には、この恋は彼女の一途な思いで実ったのだと思っていた。でもそうではなかったのだ。老いても、恥ずることなく、切々と彼女への思いを語り続けた彼にも、彼女に勝るとも劣らぬ強い愛情があったのだ。だからこそ、二人は、病に侵されようと、年を重ねようと、豊かな恋を貫くことができたのだということに、今さらながら気付かされた。 私は、胸を熱いものでいっぱいにして、お宅を辞したのだった。 (了)