- ホーム
- PHOTO エッセイ・日々 目次
- 辻桃子主宰から学んだ俳句の世界
辻桃子主宰から学んだ俳句の世界
2025年12月05日 [ No.140 ]
◎ 私達の俳句の師、俳句結社誌「童子」主宰の辻桃子さんが、去る6月、急逝された。まず、読売新聞の6月14日の訃報欄を転載してみよう。 「辻桃子さん。80歳(本名・安部桃子=俳人)。11日、原発不明癌で死去。横浜市生まれ。18歳で俳句を始め、波多野爽波に師事。俳誌『童子』を主宰し、日本伝統俳句協会理事などを務めた。句集に『津軽』、著書に『生涯七句であなたは達人』などがある。よみうり文芸地域版の俳句選者を長く務めた。」 この11月には、全国から「童子」会員100余名と、俳句関連の方々が集まって、盛大な「お別れ会」が開催された。私にも、皆にとっても辻桃子主宰は、俳句の師であるのはもちろんだが、それ以上のカリスマ的存在であったような気がする。 私が、辻桃子主宰に初めてお目にかかったのは、出版社を60歳で定年退職してしばらくたったころである。在社時代は120%編集記者という仕事に打ち込んでいたから、定年後はもう十分と思い、すっぱり手を切った。高校時代からやりたかった小説の勉強のため、まず朝日カルチャセンターの小説講座に入会。そして友人の中山幸子さん(俳号、中小雪さん)に誘われて、「童子」の椿山荘の吟行句会に参加した時だった。 俳句は高校時代、国語の時間に学んだ程度で、ほとんど知識もなかったが、その時、出した食材だけを羅列した句を、主宰がほめてくださった。それがきっかけで、「童子」に入会し、銀座句会に月一度通うようになった。たなか廸子さんがていねいに指導してくださり、当時は小雪さん、三四郎さんなど同年配の方や、先輩がいらして、少しずつ俳句を学んでいった。時には、辻桃子主宰や安部元気副主宰も、お顔を見せてくださった。主宰の添削は魔法のようで、私の駄句が主宰の手が入ると、見る見るいい句に生まれ変わるのを、目の当たりに体験したものだ。 しばらくして軽い気持ちで始めた俳句が、私にとってだんだん重い存在になり始めた。歴史ある文学、俳句の世界が、目の前に広がってきた。季語を含めてわずか17音の中に、言いたいことを表現することの難しさに呆然。五七五が、ただならぬものにも思えてきた。それを教えてくださったのは、やっぱり主宰の群を抜いた指導力だったと思う。そしてまだまだ、私の俳句は、下手だと自嘲もしている。 ただ俳句を初めて見ると、それまで見すごしていた庭の花や木、道端の雑草などが、違って見える。鳥の囀り、蝉時雨、夜の虫の音も耳に届く。さらに、花や新緑、枯葉、土などの匂いにも気づき、四季の移ろいにも敏感になってきた。 吟行といって、観光名所ではなく、隅田川の七福神とか、浅草のかっぱ橋道具街、日暮里の寺町、深大寺のほおづき市など、今まで行ったこともないところを俳友と一緒に巡って、俳句を詠み、後で句会をするという楽しみも知った。 それまでは友達というと、学生時代や出版社時代の友達しかいなかったが、俳句を始めてからは違った。俳友は、二十代から八十代まで年齢も幅広い。中学校の校長、路線バスの運転手、コンビニ店長、カフェのママなど、職業も変化に富んでいた。彼らの話を聞くのが、楽しみになってきた。 次第に私は俳句そのものはもちろん、俳句にまつわるあれこれのとりこになった。 また、小雪さんが74歳で急逝されてからは、主宰のお誘いで俳句結社誌「童子」の編集もお手伝いすることになった。編集の仕事は、36年間、生業としてきた仕事だったし、俳句の知識も、俳句のうまい下手は別として、10年以上も続けてきたから自然に身についていた。毎月、編集会議や校正をするようになって、定年後の暮らしに、昔と同じようなリズムも生まれて、シャキッとしてきた。 定年後、小説は2冊出版したが、一昨年、この私が、PHOTO俳句集『花のもとにて』を出版し、主宰に序文まで書いていただけたのは、望外のよろこびであった。いまや私にとって、小説と俳句の世界は別のものではなく。互いに補いあうかけがえのない「いきがい」になってきたといえる。 それもこれも、辻桃子主宰あってのこと。その存在を喪ったことは、大きすぎる打撃だが、これからは、その遺志を継いでいくことが、残された私たちの役目だと思っている。

