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「主婦の友社創業一〇八周年記念OB会を終えて」
2024年12月05日 [ No.135 ]
◎ 前回のOB会 は、2019年9月18日だった。そのあとしばらくして、OB会事務局をほとんど一人で仕切ってくれたA氏が急逝した。手伝っていただけの私達三人は途方に暮れた。A氏の葬儀後、なんとか彼の遺志を引き継いでOB会を継続していかなければと話し合ったが、間もなく新型コロナが蔓延して、先の見通しがつかなくなった。 やっと昨年になって新型コロナが五類に移行され、OB会をそろそろという話になった。事務局には、新たに60代の二人に加わってもらう。第一回目の本格的打ち合わせをしたのは今年の5月。若い人ならではの、積極的アイディアが次々提案され、より魅力的な会になりそうだった。 OB会会場は、「中央大学駿河台キャンパス」が昨年高層ビル化し、上階がレストランになっていて、卒業生でなくても使えるという情報を得て、まず下見に行ってみた。エレベーターで19階まで上って、「グッドビューダイニング」へ行ってみたら、言葉どおり、眼下の風景に目を奪われた。駿河台1―6のお茶の水スクエア、カザルスホールから、明大通り、はるかに医科歯科大学(東京科学大学)、順天堂大学が見渡せる。社員なら誰しも、思い出いっぱいの懐かしい風景だ。OB会にはまたとない会場だと思って予約をした。 主婦の友社はもともと御茶ノ水の駿河台下にあった。多くの出版社が居並ぶ一角に、大正5年創業。翌年大正6年に、婦人雑誌「主婦の友」を創刊した。駿河台1―6にあった社屋は、大正14年、高名な建築家ヴォーリズの設計による建築史にも残る瀟洒な5階建ての建物だった。そこで、「駿河台の不夜城」呼ばれるほど、昼夜、精力的に出版活動が続けられてきた。だが社は、昨今の出版不況の波に逆らえず、徐々に売れ行きが落ち、伝統ある社屋は平成13年に日本大学に売却。看板雑誌の「主婦の友」は91年の幕を閉じて、平成20年に休刊。本社も今は目黒の総合ビルに移転している。 前回のOB会には、80代、90代、100歳を超える社員まで100名以上が出席した。今回もそうなるだろうと予測。とにかく往復はがきで案内状を出そうということになった。まずA氏が残した前回の名簿を再整備し、それに新しくOBとなった社員を加えることにして、500人以上に案内状を発送した。あて先は、古い方にも新しい方にも、たぶん一番名前が知られているだろうということで、最年長の私になってしまった。7月初旬のことだった。 それからが問題だった。何日たっても返事がパラパラとしか来ない。今年の酷暑の中、毎夕方、マンションの郵便受けを覗くのが私の日課になった。7月16日は16名、25日には38名、31日には51名とやっと50名を越えた。それから徐々に増えて、締め切りの10日を過ぎた8月13日には89名、9月にも届いて、96名にいたった。予想以上の出席人数になって、私達も安堵した。 司会役のOさんが、社歌の音源探しと会場に流す工夫で、秋葉原まで走ってくれた。プログラムには、Fさんの提案で皆が気になる「現在の主婦の友社のお話」を加えた。出席者にお渡しする「しおり」は、Nさんがパソコン力を駆使して、出席者や亡くなった方々の名前、社歌から、当日の写真アルバムのQRコードまでついた、見応えのあるものとなった。当日、お茶の水の駅前には、案内板をもってFさんが、中大の玄関にはNさんが立つことにもなった。 そうして迎えた主婦の友社OB会当日は、9月になっても猛暑が続く中、高齢者が多いにもかかわらず、欠席者は1名だけという驚くべき出席率になった。受付には、経理役のTさんはじめ、手伝いを買って出た2名も加わって、続々詰めかけるOB達を迎えた。会場には三々五々懐かしい仲間が集まって、挨拶やおしゃべりで盛り上がった。2時間があっという間に過ぎて、めでたくOB会はお開きとなった。あとから「いい機会を設定してくれてありがとう」というお礼の声も、各所から届いた。名事務局長Aさん亡きあと、どうなるかと思ったOB会だったが、チーム力の結集でこうして成功裏に幕を閉じたのだった。 学生時代の同窓会、同期会は思い出深いが、会社のOB会はそれとは歴史が違う。30年、40年、苦楽を共にした仲間が一堂に会するのだ。それぞれ、その頃の若くて生き生きと仕事をしていた自分自身にタイムスリップできる貴重なひとときだと、私は思う。80歳目前の私には事務局長役は大仕事だったが、チームのおかげで最後までやり終えて、胸をなでおろしている。生涯で忘れられない暑くて忙しい夏が終わったのだ。