私は、都立青山高校三八卒業生です!
2024年01月05日 [ No.131 ]
◎ 朝日新聞で、昨年の5月12日から、毎週金曜日、高校ポートレートという連載が始まった。その第一回目に、私の母校「都立青山高校」が取り上げられた。「どうして?」と思って注目したら、四回も続いたのでびっくりした。 その一回目には、「創立は1940年。頭髪や服装は基本的に自由だ。表参道、原宿にも近く、あか抜けた雰囲気が漂う。都が指定する進学指導重点校にもなっているうえ、部活動や行事も盛んで、勉強、部活、行事の『三兎を追え』が合言葉だ(抜粋)」とある。 私が入学した1960年当時は、ちょっと違っていた。当時は学区制があり、私が属していた第二学区には,戸山、新宿、駒場という一流校があり、青山高校は二番手。一流校は無理でも青山高校ならと、受験したのである。ちなみに同学年の吉永小百合さんは、駒場高校に入学した。 当時の青山高校も、この記事にもあるように自由な校風が貫かれていた。だから勉強ひとすじではなく、クラブ活動は文学部を選び、文化祭にも積極的に参加した。文学部では、「ねなしかづら」という同人誌を発行していたが、そこに投稿することが現在の私の出発点にもなったといえる。 「高校ポートレート」四回目には、現在の永森比人美校長が登場し、「学校の立地は最高で、多くの文化施設やスポーツ施設、公園に囲まれています。都心にありながら四季も感じられ、独特の雰囲気がある。生徒たちをみていると、この学校が大好きで誇りに思っているんだなと強く感じます。ここで学べる三年間は楽しそうだなと思います(抜粋)」と締めくくっている、 青高卒業後はそれぞれ目指す方向の大学に進学し、希望の職業に就いた。宇宙開発事業団はじめ、船長、建築事務所、放送局、出版社、広告会社など、各自、青高出身者ならではの多彩な活躍をしていたようだ。私も大学文学部を経て、出版社に努めた。青高の先輩には、故・仲本工事、橋爪功、後輩には草刈正雄、滝川クリステルさんなどもいる。 青高を卒業して十年以上たった1977年、青山高校三八同期会(昭和38年卒業)なるものが発足した。当時のことはほとんど覚えてはいないが、四年に一度、オリンピックの年に、同期が集まって、旧交を温めようという主旨だった。八組あった三年次のクラスごとに幹事がたち、私もその一人になったのである。 始めの頃から会長はMMさんだったと思う。同期会は彼のもとで文集を出したり、順調に続いた。しだいに病気になる人、車椅子になる人、亡くなる人も出てきた。私達もそういう年になったということで、その後四年に一度では間が空きすぎる、二年に一度にしようということになったのだ。 また同期の亡くなった人を忍ぶ「長久会」や、女子の別荘や別荘地に男子数人が行って、木を伐ったり、蒔割りなどの力仕事をするという「木こり隊」もできた。いかにも青高出身者ならではの分科会だと思った。 ただ新型コロナウイルスの流行で、当然のことながらそのサイクルが途切れた。しかし、MMさんはそれではせっかくの同期会が消滅してしまうと、青空幹事会なるものを提案実行した。新宿御苑でピクニックシートを敷き、定期的に幹事達の親睦を兼ねた話し合いの場を設けたのである。 昨年秋には、やっとコロナも落ち着いてきたので、久し振りに全員集合の同期会を開こうということになった。夏から彼をはじめ各クラスの幹事が熱心に準備をし、同期会当日には六十八名が集まった。これはMMさんの功績だと思った。 それから三週間後、なんと旅先でMMさんが急逝した。皆、信じられなかった。彼亡きあと、同期会の打ち上げのために、彼が前もって予約していたレストランで、私達は彼を偲び、今後も彼の遺志を継いで、青山高校三八同期会を継続していくことを誓ったのである。 私達も今年は八十代を迎える。次々、いやでも旅立っていくだろう。でも、天国ではMMさんが幹事会を準備して待っていてくれそうな気がする。今私は、八十代になっても青高スピリッツを忘れないこんないい仲間がいるなんて、幸せで心強いことだと思っている。 最後に、都立青山高校の校歌(一番のみ、杉山清治作詞、小杉太一郎作曲)を紹介しておこう。歌い出すと、十代の日々が今も懐かしくよみがえって来る。 早緑匂う神宮の 杜にそびゆる学び舎の ああ若人の希望の泉 学びの窓に映え招く 自由の光輝かん 栄えあれ青山我らが母校