私の「渋谷」はもう消えた!
2023年4月05日 [ No.122 ]
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この2月に渋谷の東急本店が閉店となって、私が若い頃から慣れ親しんだ「渋谷」は、もう完全に消えてしまった。その前、2020年3月には、東急東横店がすでに閉店となり、2027年には「渋谷スクランブルスクエア」として生まれ替わるという。東急本店跡地も、同年、「渋谷アッパープロジェクト」の名のもとに、ホテルなどを含む地上36階の高層ビルに建て替えられるという。こうして渋谷の再開発は目まぐるしく進んでいくようだ。 最近はコロナ禍もあって、人混みで有名なスクランブル交差点は避けたかったし、ほとんど渋谷に足を運ぶこともなくなった。でも東急本店に隣接している「Bunkamura」の「ミュージアム」と「ル・シネマ」だけは、時々私の好みの催しがあったので、意を決して通っていた。地下一階には19世紀にパリに誕生した「カフェ ドウ マゴ」の伝統を受け継ぎ、日本のフレンチと融合させた「ネオ・クラシック」がコンセプトの「カフェ ドウ マゴ」。吹き抜けスペースもあり、展覧会や映画の余韻に浸りながら、お茶するのも楽しみだった。その「Bunkamura」も、4月10日から長期休館となる。だから私が渋谷へ行く理由はなくなった。 私は高校時代から、世田谷区の三軒茶屋に住んでいた。外苑前にあった都立青山高校へも、高田馬場にあった早稲田大学へも、そして実家を出るまでは御茶ノ水にあった主婦の友社へも、毎日、玉電や地下鉄を利用し、「渋谷」を経由して通っていた。 玉電は明治40年、国道246号線の上を、渋谷から玉川までの全線が開通し、沿線住民の足としての役割とともに、多摩川で採取された砂利を都心に運ぶ目的も果たしたという。戦後も沿線の気軽な足として利用されてきたが、その後、クルマが爆発的に増え、行く手を阻まれて定時運行ができない状態になってきた。そして東京オリンピック開催が決まり、国道246号線の上に首都高速道路を通し、地下には都心と多摩田園都市とを結ぶ地下鉄を作る計画が浮上し、昭和44年には、三軒茶屋~下高井戸間(世田谷線)を除いて、道路の上を走る玉電は姿を消した。 その昔、玉電は遅延と混雑で有名で、痴漢も横行した。地下鉄ができて、若かった私はほっとした思いだった。 その当時、私にとってデパートというと、東急東横店を意味し、地元三軒茶屋にはないおしゃれなものを売っていた。そこで洋服を買ったり、食事をすることは、「晴れ」の出来事だった。高校から大学時代というと、青春のまっただなか。私は友人達とハチ公前で待ち合わせ、渋谷駅前の「西村フルーツパーラー」や、名前は忘れたが甘味店に行っておしゃべりに興じた。 書店といえば、これも渋谷駅前の「大盛堂」書店。わずかな小遣いの中から、小学館の雑誌「女学生の友」を毎月買った。短編小説に応募して、佳作入選。小学館の編集者に「これからも小説を書き続けたら」と勧められたのも、渋谷の喫茶店「フランセ」だった。その話に乗っていても、やっぱり小説家への道は遠かっただろう。 その頃は新宿も、まして銀座などは手の届かないところだった。というより、外国に近いイメージで出かける勇気もなかった。電車に乗っての外出と言えば、「渋谷」に限られていたのだ。その「渋谷」が消えたのだ。淋しいが、時代の流れだとあきらめはつく。 ただ渋谷の再開発が進む中で、同じく渋谷区の神宮外苑の再開発を都が認可したそうだ。神宮外苑も、私の中では忘れられない場所だった。私が通学していた都立青山高校にも近く、体育の時間には、絵画館前はマラソンコースとなっていた。1周すると1㎞、そこを4周して、1時間が過ぎた。体育の時間ばかりでなく、外苑は新緑の頃も、銀杏並木が黄葉する頃も素晴らしく、放課後もそこで長い時間を過ごすことが多かった。 外苑の再開発では、神宮球場や秩父宮ラグビー場を建て替えるほか、高層オフィスビルや文化施設を新たにつくることで、賑わいの創出を狙うという。ただ「現状の計画では生態系に悪影響を与える」という反対の意見が強い。特に外苑の顔ともいえる樹齢百年超えの「銀杏並木」については懸念の声が相次いでいる。事業者側も、現在銀杏並木の根の状態を調査しており、新野球場の設計に先立ち、銀杏の保全に必要な措置を精査しているという。 私の「渋谷」の再開発はともかく、私の「外苑」の再開発については、強く反対したい。永年私達が大切にしてきたものの保全を問わずして、再開発がなされていいものか。これには黙って目をつぶれないと思っている。