「捨てない生きかた」と「捨てる生きかた」と
2022年12月05日 [ No.118 ]
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捨てなくていい――何年も着ていない服、古い靴や鞄、本、小物…愛着ある「ガラクタ」は人生の宝物である。 五木寛之著『捨てない生きかた』の表紙に書かれたこの文章を読んで、私はびっくりした。 五木寛之自身も、「まえがき」の冒頭に、「この本を書くには勇気がいりました。なにしろ『断捨離』という発想はすでに、社会に大きなインパクトを与えていたからです」という一文を載せているくらいだ。 続けて「中世、法然を源流とする日本の浄土教は『捨てる』ことを出発点としました。彼は『余計な知識を捨てろ、赤子のように無心に念仏ひと筋に帰せ』と語り、その思想は親鸞、一遍に引き継がれました。中世には、世を捨てて簡素な生活に身を投じる、隠遁と呼ばれるライフスタイルが文人や貴族のあいだで流行しました。捨てようにも捨てられないしがらみのなかで生きる人々は『捨てる生きかた』に憧れ、鴨長明など多くの隠遁スターが生まれました。 そうした東洋的な思想とかすかにつながっているところから、現代の『断捨離』が欧米でも注目を集めたのでしょう。モノたちに感謝し合掌して捨てる、といったアイデアも新鮮だったと思います」と、言及する。 そして五木寛之は「あとがき」で、「いよいよ『人生百年時代』がやってきました。記憶という自分が生きてきた証、また時代という歴史の記憶さえ呼び出してくれるモノたちに囲まれて過ごす人生は、とても豊かなもののように思います。私たちの後半生は、芳醇な回想の時代であり、黄金の時代なのです」と締めくくっている。 これを読んで、「捨てなくてもいいんだ」と、多くのモノに囲まれ、罪の意識さえ持っていた人々は、ほっと胸をなでおろしたに違いない。 でも私自身は、「断捨離」が世を挙げてのブームとなり、今もテレビ番組でも度々取り上げられていることを見るたび、「今頃、気付いたの?」と思ってしまう。 実家を出てから狭いアパート、団地、マンションと移り住む中では、そのつど増えるモノを捨てて行くことは必須だった。引っ越しのたびに、服も靴も鞄も本も小物も、思い切りよく捨てに捨てた。運よく妹がいるので、そちらへ回したものも少なくない。単に捨てるのと違って、罪悪感が薄まるような気がした。 現在の56㎡のマンションに落ち着いてほぼ三十年。ここでも三回ほどリフォームしたので、そのつどモノは大幅に処分した。空いたスペースに、新しい服や、食器、小物類、そして本などを厳選して整えるのは楽しい作業だった。 私は、捨てる、捨てないという暮しの違いは、一つは住宅事情にあると思う。戸建ては小さくても、押し入れや納戸、天井収納、床下収納、場合によっては庭に物置きだって作れる。妹宅も小さいが戸建てなので、私が譲ったものくらいゆうゆうと納まっている。とにかく当面モノを捨てなくても、多少増やしても暮らしていけるのだ。だがマンションはそうはいかない。捨てなくては、モノがあふれ、居住スペースを狭めてしまう。だからモノを増やしたら、その分捨てなくては暮らしがなりたたなかったのだ。 そしていよいよ「終活」の時期になって、この『捨てない生きかた』という本に出会った。私の捨てられない「ガラクタ」は何だろうと考えたとき、それは五木寛之の言う「ガラクタ」とは違うように思う。彼は自分の著書を「ガラクタ」とは呼ばないが、私には今まで自分が書いてきたものが、愛着ある「ガラクタ」のように思える。私は『繭の部屋』と、『夢の夢こそ』という短編小説集を自費出版という形で残した。その他の俳句、エッセイ、写真なども、増えたからと言って捨てられない。だからパソコンを使うようになってからは、そのすべてをパソコンの中にデータとして残してある。これこそ彼の言う、私の「人生の宝物」である。 ただパソコンほど、怖いものはない。いったん壊れてしまったら、その大事なデータを復元するのは素人には無理だ。 だから折々USBメモリーや外付けメモリーにバックアップしていたけれど、完璧とはいえなかった。そこで思い切って、今回、パソコンショップのバックアップサービスに加入した。1ケ月550円だが、2時間おきに、自動的にデータをバックアップしてくれるというサービスだ。いよいよ最期の時が来たら、パソコンデータを削除して、このサービスも打ち切れば、私の宝物は消え、誰にも迷惑がかからない。 「ガラクタ」と言えるものは、人それぞれだろう。それらを五木寛之の言うように、その人なりに残しておくことが、後半生の豊かな生き方ではないだろうか。