緩和ケア医・山崎章郎先生の「がん共存療法」
2022年9月05日 [ No.115 ]
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緩和ケア医の山崎章郎(ふみお)先生(74歳)が、数年前、自らステージ4のがんに侵されたことがわかり、治療を続けている。この度、自分で試している「食事療法」と少量の「抗がん剤」で悪化を抑える「がん共存療法」を『がんを悪化させない試み』(新潮選書)という本にまとめた。 山崎先生と言えば、1990年、著書『病院で死ぬということ』(主婦の友社刊)で現代医療に一石を投じた緩和ケア医だ。同じ出版部で席を並べていたKさんの担当で、ベストセラーとなり、 社内では知らない人はいなかった。
医療現場が、医者と科学技術を中心としてまわり、延命治療が至上課題となっていたなかで、人が一人死ぬと言うことがどのようなことなのかを問いかけ、大きな波紋を投げかけた本だ。すべて実際に起きたエピソードに基づいて書かれていて、十六年間で一万人の患者とかかわってきた外科医が、医療者としての痛恨の思いを込めながら、現在の日本の終末期医療の現状を変えたいと訴えた一冊である。 三年後の1993年に出版された『続・病院で死ぬということーそして今、僕はホスピスに』(主婦の友社刊)も大きな話題を呼んだ。山崎先生は、人がその人生の終幕を迎える現場に医師として立ち会い、主人公であるべき死に行く患者の尊厳が踏みにじられていることに憤りを覚え、ホスピスの仕事に生涯をささげる決意をする。終末医療は病気と闘うことよりも、患者の苦痛を抑え、その人生の最期をその人らしく迎えることができるようにサポートすることに重きが置かれる。この思想を共有する専門家たちと愛する人々に囲まれて、人生の週末を迎える人たちが、いつわりのない安心感の中でその生涯を終えるエピソードが綴られていた。 ところで私は2002年の秋の検診で、卵巣腫瘍を指摘された。何の自覚症状もなかったが、専門病院で12月に開腹手術を受けた。手術の結果、ステージ3―Cの後腹膜腺癌という珍しいがんだったということが判明し、新年から約9ヶ月に及ぶ抗がん剤治療が続けられた。私の場合抗がん剤の副作用は軽かったが、今と違って通院は許されず、長引く入院生活のほうが苦痛だった。死ぬのなら山崎先生のいる聖ヨハネホスピスへと夢見たくらいだ。でも9か月後には抗がん剤治療も終わり、晴れて退院でき職場復帰も叶った。それから定期的に検査に通っているが幸い再発転移もない。がんで命を失う人が多い中で、私はラッキーだったと思うしかない。助かった命を大切にしなければならないと痛感もしている。 だから私は山崎先生自身が大腸がんと聞いた時には、ショックを受けた。先生自身は「大腸がんと確信した時、私は失意や衝撃ではなく、遂にその時がやってきた来たかと、腑に落ちた気持ちになれたのだ」と書いている。
先生は2018年、大腸がん切除術を受け、病理検査でステージ3ということが判明し、再発予防目的で半年にわたる経口抗がん剤の服用が始まった。その副作用は一時休薬を余儀なくされるほど厳しいものだったが、半年後の検査で両側肺の多発転移が判明し、ステージ4の大腸がん患者になったのだ。先生はもう再度の抗がん剤治療を受ける気持ちにはなれなかったそうだ。 抗がん剤治療からは解放されることにはなったが、今後どう生きていくかが課題となった。一ヶ月も経過すると、副作用が消失し、体調は良好だった。仕事を続けながら、先生は今のうちにがん医療の欠落部分の改善に取り組もうと考えた。それがステージ4の当事者になった緩和ケア医である自分の役割だと確信するようになったそうだ。 先生は抗がん剤ではない方法で、抗がん剤に代わりうる「がんと共存」できる方法を探してみようと考えた。「がん難民」と言われる人々の足元を見るような療法ではなく、それらの人々が残された時間を、少しでも長く、納得して生きる療法だ。先生はそれを「がん共存療法」と名づけた。そしておよそ2年後の2021年7月、自分の体験を通してであるが、MDE糖質制限ケトン食、クエン酸療法、少量の抗がん剤という療法にたどり着いたのだ。詳しくは先生の著書『がんを悪化させない試み』に書かれている。 その間、先生自身の転移病巣は、転移発覚時よりは縮小状態が続いているが、いずれは進行し死に向かうだろうと考えている。だからこそ先生は批判や非難を恐れず、がん医療の課題の改善の一つになりうる「がん共存療法」の確立に全力を尽くしたい、それが医者としての大半を緩和ケア医として生きてきたの人生の締めくくりなのだと結んでいる。がんはいつ襲ってくるかわからない。がん闘病中の人はもちろん、そうでない人にも、ぜひ一読をお勧めしたい。