追悼、「男と女」のジャン・ルイ・トランティニャン
2022年8月05日 [ No.114 ]
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フランスの映画俳優、ジャン・ルイ・トランティニャンが、6月17日、91歳で亡くなった。新聞の小さい訃報で知ったが、それ以降、その訃報以上の詳しい記事は載らなかった。映画の再放送もなかった。でも私たち世代にとって、彼はアヌーク・エーメと共に、映画「男と女」の主役として、忘れられない俳優だった。「ジャバダバダ」というスキャットで始まるフランシス・レイのメロディにのって、「男と女」は当時、胸ときめかせた映画だった。 1966年公開の一作目は、フランスのドービルにある学校の寄宿舎に娘を預けて、パリで映画のスクリプターをしているアンヌ(アヌーク・エーメ)と、同じ寄宿舎に息子を預けていたカーレーサーのジャン(ジャン・ルイ・トランティニャン)が、子供を通して知り合う。汽車に乗り遅れた女を、男が自分の白いマスタングでパリまで送ったのがきっかけ。二人には、それぞれ夫と妻を亡くしたという共通の過去があったが、やがて互いへの思いと辛い過去の間で揺れ動き、愛し合い、余情を残して別れていく。この映画では、三十代の二人の過去を引きずった恋の痛みが、ひしひしと伝わってきた。アヌークは文句なく美しかったし、ジャン・ルイも精悍なカーレーサーそのものだった。 それから見逃したが、1986年に二作目の「男と女Ⅱ」が公開された。二十年ぶりに再会した男と女の愛を描いた作品で、二十年前に愛し合っていたカップルが再会して、再び恋に悩む姿を描く。製作・監督・脚本・撮影はクロード・ルルーシュ、音楽はフランシス・レイ。出演は前作の主演アヌーク・エーメ、ジャン・ルイ・トランティニャン、エヴリーヌ・ブイックスほか。 そして五十三年後の2020年、「人生最良の日々」として、三作目が生まれたのだ。音楽のフランシス・レイは2018年に逝去したものの、クロード・ルルーシュ監督も、主役の二人も、子役も、初回と同じキャストが演じるという話題の映画だった。この三作目を予告編で観たとき、私は迷った。一作目の印象があまりに鮮やかだったから、その五十三年後の物語を観ることに躊躇した。予告編のスクリーンには、あきらかに年を重ねた二人が写っていた。白髪の年老いた男、皺を刻んだ女、ここからまたどんな物語が生まれるのだろうか。でも私は勇気を奮って観に行くことにした。自分も同じく年をとったのだから、そういう目で観てみようと。 三作目では、カーレーサーで鳴らした男が、海辺の老人施設で静かに暮らしている。徐々に過去の記憶を失い始め、思い出すのは、昔、愛した女、アンヌのことだけだ。彼の息子は小さな店を開いている女を探し出し、一目父親に会ってほしいと頼む。アンヌは施設を訪ね、今はレーシングカーならぬ車椅子に乗る男に会うが、彼はアンヌとはわからない。しきりに昔の女への思いを話し始める。電話番号すらはっきり覚えているのだ。アンヌはかって愛した男の現在をやさしく受け止め、彼を乗せて思い出の地のノルマンディーへと、今度は自らハンドルを握ってマスタングを走らせる。長い空白を埋めるように、二人の物語が新たに始まろうとしていた。 三作目当時、監督クロード・ルルーシュ八十二歳、女アヌーク・エーメ八十七歳、男ジャン・ルイ・トランティニャン八十九歳、当時それぞれの子供を演じた俳優も、六十代だという。実年齢を知ると、びっくりするようなメンバーで作り上げた画期的な作品だった。ルルーシュ監督は、二人の心に残る「男と女」の思い出を、フラシュバックで巧みに取り込みながら、現在の姿を描いて見せた。 彼らはこの映画のためにだけ結集した過去の人々ではない。ルルーシュは、「男と女」以降、作曲家のフランシス・レイと組み、映像と音楽によるスタイリッシュな大人の恋愛映画を発表し続けた。これが四十九作目、すでに五十作目を制作中という。アヌークは、名実ともにフランスを代表する女優の一人として今も活躍中。ジャン・ルイも、「男と女」以来、百本以上の映画に出演していた。だがもう四作目は生まれない。寂しさが込み上げてきた。 ジャン・ルイの訃報を知って、一番悲しんだのはルルーシュ監督だったのではないか。三作目を作ってほんとうによかったとも思ったことだろう。メンバーの中では一番若いとはいえ、監督も当時八十二歳になっていた。ルルーシュは三作目を作ることによって、自らの力を出し切って彼自身の「人生最良の日々」を完成させたともいえよう。ジャン・ルイにとっても、アヌークにとってもそれは同じだったと思う。観た後では、この三作目に最も心打たれた。私自身も、今、自らの「老い」を知り、残る時間を「人生最良の日々」にするべく、力を尽くしたいと思っている。