小池真理子さんの講演を聴きに行く
2022年7月05日 [ No.113 ]
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先日、新緑の軽井沢へ、小池真理子さんの講演を聴きに行った。午前中は高原特有の雨がぱらぱら落ちてきたりしたが、十二時半の開場頃にはすっかり上がって、五月晴れの気持ちよい一日となった。 講演は軽井沢町立図書館文化講座の一環で、テーマは「生と死を書く~私の中を流れる時間」。予定では、朝日新聞の連載エッセイ「月夜の森の梟」が大好評のうちに終わったのを機に、昨年八月十三日に開催予定だったが、コロナ禍で延びに延びて、去る五月二十二日にやっと実現したのだ。友人が応募してくれ、運よくチケットを手に入れることができて、楽しみに待っていた講演会だった。 思えば夫の藤田宜永さんが直木賞を受賞され、その記念の軽井沢でのトークショウで初めてお二人にお目にかかってから、早くも十九年がたったのだ。 会場は、軽井沢の矢ケ崎公園のなかの大賀ホール。『月夜の森の梟』は新聞連載中から多くの反響を呼び、昨年十一月末、朝日新聞出版から、単行本としても発行された。ホールは全席七八四席だが、コロナ対策で満席にはされていなかったが、会場には全国から愛読者が続々集まり、小池さんが登場するのを息をひそめて待った。 プログラムは、まず軽井沢町立図書館館長より、小池真理子さんの紹介があった。うすものの黒と鮮やかな色を取り合わせたドレス姿の小池さんは、悲しみを内に秘めながらも、明るい声でご挨拶された。 続いて『月夜の森の梟』よりということで、青木裕子氏(軽井沢町立図書館名誉館長)の朗読が始まった。その朗読に、チェンバロ奏者の小澤章代氏の演奏が合わせられた。 Ⅰ 夫、藤田宜永の死に寄せて 三十七年前に出会い、恋におち、互いに小説家になることを夢みてともに暮らし始めた。彼は今、静寂に満ちた宇宙を漂いながら、すべての苦痛から解放され、永遠の安息に身をゆだねているのだと思う。それにしても、さびしい、ただ、ただ、さびしくて、言葉が見つからない…。 チェンバロ〈Praeludium (Suite III) by Johann Kuhnau〉 Ⅱ 百年も千年も 三十七年間、生活を共にしてきたが、百年も千年も一緒にいたような気がする。途方もなく長い歳月が、古木に空いた大きな洞の中、湿った真綿のごとく積み重ねられている。独りになった私は今、その洞の薄暗がりの中に潜んでいる… チェンバロ〈La Morisseau by C.B.Balbastre〉 Ⅲ 三島と太宰 夫とはよく三島由紀夫の話をした。三島の小説や評論、三島という作家について語っているときだけは、意見の相違は生まれず、何から何まで気が合った… チェンバロ〈あおい海の懐ろ by 小澤章代〉 Ⅳ 雪女 ある晩、いたたまれなくなって雪かきを口実に外に出た。スコップを手にふと我に返ると、雪の中にゆらゆらと佇んだまま、嗚咽を続ける自分がいた。あふれる涙が氷点下の風にふかれていった。あの時の私は、間違いなく雪女だった… チェンバロ〈Ricercar VI by J.J.FRoberger〉 Ⅴ つながらない時間 ある日ある時を境に、すべてが恐ろしく変わってしまった。それ以前とそれ以降の時間とが、まったくつながらない。別物のように感じる… チェンバロ〈空へ by 小澤章代〉 『月夜の森の梟』は、私は新聞連載の頃から読んでいたし、本になってからも何度も読み返していたが、朗読を聴きながら、また胸が詰まった。ホールは、五角形のサラウンド型。随所に木素材が使用されているから、音響効果がすばらしい。チェンバロの響きは、朗読をいやおうなくもり立てた。 最後は小池真理子さんのおはなし。新潮社出版部部長、中瀬ゆかり氏が聞き手だった。中瀬氏も、作家の夫に数年前急死され、それぞれの夫への惜別の想いには共通点が感じられた。小池さんは、死というものは個別のものだ、時間が経てば、深い絶望感は変わっていくが、あふれてくる言葉を、自分の気持ちの記録を、これからもポエムのように残しておきたいと言う。また新潮社より出版された小池さんの最新作、『神よ憐れみたまえ』は、藤田さんの闘病中から執筆していた作品だが、ラストシーンは、彼の死が投影されているとも語った。 講演は、小澤章代氏のピアノで、バッハのマタイ受難曲「神よ憐れみたまえ」で締めくくられた。音楽と共に心に深く響く講演会だった。