百五歳で亡くなられた辻りんさんの「俳句人生」
2022年6月05日 [ No.112 ]
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去る四月二十五日、パレスホテル立川で、辻りんさんの百寿記念、『百歳句集』の朗読会が行われた。辻りんさんとは、私が属している俳句結社「童子」の主宰、辻桃子さんのお母さまだ。二月二十八日、百五歳と一ケ月で亡くなられた。くしくも、俳人、稲畑汀子さんが逝去された翌日だ。この日は、りんさんへの追悼の思いを込めて朗読会が開かれ、全国から約六十名の連衆が出席した。出席者全員が自分の好きな一句を短冊に書き、読み上げたあと、遺影に手向けた。りんさんにとっては何よりの供養になったのではないかと思う。 りんさんが俳句を始めたのは、桃子主宰はじめ娘三人を育てている真っ最中だ。主宰の父の伯父、辻克己は武者小路実篤と親しかった画家で、その家では毎月俳句会が開かれ、彼女はその伯父に俳句を見てもらっていた。伯父が「あなたの句を西島麦南に見せたら、こりゃあいいってほめてたよ」と言っていたという。 それから七、八年後、りんさんは一から俳句を学び直そうと市民講座に通い出し、家に俳句の先生を読んで句会も始めた。それがきっかけで主宰も俳句を始めたと聞く。その後、りんさんは「河」に入会し、角川源義に数々の句を褒められた。立川市民俳句大会では、加藤楸邨、楠本憲吉、飯島晴子など、錚々たる俳人の方々からも特選をいただいたそうだ。 でもりんさんは大変な引っ込み思案で、人の陰に隠れるようにこつこつと句作を続けてきた。自分に厳しく、今まで主宰が何度も「句集を出しましょう」と持ちかけても、そのたびに「とんでもない、私の俳句はまだまだ」と断ったという。 ようやく五年前、りんさんが満で百歳を迎えた時、主宰がりんさんの句をまとめ、ゲラになったのを見せると、「句集もいいわねえ」と答えたという。彼女は長く絵筆も握ってきた。句集に添えた彼女の俳画は穏やかで味わいがある。 りんさんは、百歳を超えて足を骨折してからは、一人暮らしが無理になったので、自分から施設に入った。「娘三人とも自分の家で暮らそうといってくれたのですが、私は独立独歩の人生が好きなのです」と。施設の最高齢ながら、百三歳まで施設で句会を続けていたという。心底俳句が好きで、「あなたもおやりなさいよ」と、俳句の楽しさを皆に伝えきたのだ。 『百歳句集』には、八十四歳から百歳までのりんさんの句が年代別に並べられている。そこからいくつか紹介しよう。 八十四歳から八十六歳「恋仇」 秋灯や昔むかしの恋仇 菊人形イチローの手の生々し 八十七歳から八十八歳「ひとり住み」 ひとり住み忘れ風鈴鳴る夜なり 栗むいて己にむくは淋しかり 八十九歳から九十歳「十三の踊」 年とつてをれどときめき雪積もる 九十年秋の夜風の吹くままに 九十一歳から九十二歳「婆の走り」 春疾風婆の走りのおごそかに 暖房車このほのめきは恋に似て 九十三歳から九十四歳「夢なのだ」 夢なのだゆたんぽ足で引きよせて 子に見せる絵本の中も雪が降る 九十五歳から九十六歳「そりやあもう」 春立つやなにくそと押す車椅子 足弱も青き踏みたしそりやあもう 九十七歳から九十八歳「句友達」 余生なほしやれた夏靴えらびけり 薔薇一輪やめたはずなる句帖出し 九十九歳から百歳「命の母」 日脚のぶ生きてりや良いてふものでなく 命終はおしやれにせんと夜長かな いずれもわかりやすい句ばかり。それでいて熟練の技が駆使されている。季語を取り入れて、思いを具体的な景として表現している。老いを前向きに明るくとらえ、恋心さえのぞかせている。百歳に至る人の句とは信じられないくらいだ。 「あとがき」で、りんさんは「残り少ない人生ですが、俳句のお蔭で豊かに過ごして来られたことをただ有難く、感謝しております」と書いている。俳句があったからこそ、百五歳までいきいきと生きられたのだ。私はまだそんなことは言えない。でもなんであれ、一生を賭けられるものを見つけることが、どんなにたいせつか、教えられたような気がする。