とうとう「喜寿」を迎えました
2021年11月05日 [ No.105 ]
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あーあ、とうとう「喜寿」を迎えてしまった。十月二十三日が、私の七十七歳の誕生日。本来は、数え年の七十六歳で祝うそうだが、今や数え年は風化している。それにしても自分がこの年までなんとか元気で生きてこられたことが、いまだに信じられない。以前は七十七歳と言えば、正真正銘のお年寄り、向こうの世界へ足がかかっている人というイメージだった。 長寿祝いは賀寿ともいい、七十七歳の喜寿の起源は室町時代ともいわれる日本発祥のお祝いのようだ。「喜」の草書を楷書にすると「㐂」と書き、字を分解すると「十七」の上に「七」が付いたような文字となることに由来。「寿」には「長命」という意味があるという。 長寿の祝いは還暦から始まり、長寿を祝う節目の年齢にはそれぞれ名前が付けられている。六十一歳:還暦(かんれき)、七十歳:古希(こき)、七十七歳:喜寿(きじゅ)、八十歳:傘寿(さんじゅ)、八十八歳:米寿(べいじゅ)、九十歳:卒寿(そつじゅ)、九十九歳:白寿(はくじゅ)。私の場合、次は「傘寿」、その次は「米寿」ということになるが、そこまではとても無理だろう。 杉並区役所の高齢者施策課いきがい活動支援係からは、初めて「敬老会のご案内」が来た。敬老の日に公会堂で、式典と、日本フィルハーモニー交響楽団による演奏があるという。 高齢者ばかりが集まる会には抵抗があって、謹んで辞退した。浦和市の同い年の友人のところへは、市から祝い金が届いたそうだ。 私は五十八歳のとき、後腹膜がんという珍しい腹部のがんにかかった。開腹手術に続いて抗がん剤治療をし、約一年間、入退院を繰り返した。その後も定期的に検診に通ったが、幸い恐れていた再発転移もなく、一九年経った今でも元気に暮らしている。当時のがんの入院仲間は、子供のいる若い人もお年寄りも競い合うように亡くなった。それを思うと、このたまたま助かった命を大切にしなければと痛感している。 「還暦」は定年と同時だったので、私には定年のほうが重かった。がんから生還して間もない時期だったから、体力の回復に力を入れている最中でもあった。加齢より、回復があきらかで、年は感じなかった。その勢いで、七十歳の「古稀」も知らぬ間に通り過ぎたように思う。 だが健康寿命は七十四歳といわれるのは正しい。七十五歳で後期高齢者になってからは、さすがにあちこち問題が出てきた。歯の治療は欠かせないし、目は白内障手術を受けた。定期健診で、高血圧や高コレステロール、骨粗しょう症などを指摘され、成人病の薬は各種飲まざるを得なくなった。でもまだすべて日常生活に支障がでるほどのことはない。 定年まで私はこれと言った趣味もなく、仕事一筋だった。残業、休日勤務も続いたが、不満もなく充実した毎日だった。仕事がなくなるのが恐怖で、定年と同時に若いころから興味のあった小説講座に通い始め、俳句結社にも入会した。 最初は自分へのノルマのごとくやっていたが、両者ともすぐ面白くなってきた。九年目に一冊目の短編小説集『繭の部屋』を主婦の友社から上梓。ホームページ「牧康子の部屋」も開設した。それから八年して、二冊目の短編小説集『夢の夢こそ』を新潮社から、「喜寿」の記念として上梓した。 ホームページは始め一度開設すればあとは部分修正でと思っていたが、これも意欲が出てきて毎月更新するというメールマガジンにまで発展した。PHOTO俳句、TOPICS、今書いている身辺雑記「日々」など、月替わりで更新するのは時間はかかるが、自分の興味あることを「見て、聞いて」と言える場所があることは、楽しい。だからやめられない。写真はもちろん、イラストも自分で描いている。 だが小説は高校時代から書いていたが、俳句は、定年後一から始めたからそう簡単には上達しない。月四、五回、句会や吟行へ出かけて投句もしているが、自分ではまだまだと思っている。ただ学校や会社とは違う俳句仲間が出来たことは貴重だ。俳句誌「童子」の編集部にも加わった。けっこう忙しいが仕事で培った編集の力を生かせるので、多少は役に立っていると思う。 最新の厚生労働省の発表では、2020年の日本人の平均寿命は女性が87・74歳、男性が81・64歳で、いずれも過去最高を更新したとのことだ。 そんなわけで、私は今、小説、エッセイ、メールマガジン、フェイスブック、俳句、俳句誌の編集と、現役時代と変わらぬ忙しい毎日を過ごしている。「今日は何をしよう」ではなく、「何から手をつけよう」と。平均寿命までわずか十年。「喜寿」を機に、健康を維持しながらスピードを緩めて、もう少し歩き続けられればと思っている。