惜別・藤田宜永さん
2020年03月05日
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二〇二〇年一月三十日。あの晩、私はちょうど作家・藤田宜永(よしなが)さんの最新刊『ブルーブラッド』を読んでいた。四八七ページにも及ぶ大作だったから、いくら面白いといっても一気読みはできない。二日目で、後半に差し掛かったところだった。彼の新刊にはいつも感想文を書いて送っていたので、メモをとりながらページを繰っていた。 その時、つけたままだったテレビのニュースで、藤田さんの訃報が流れた。右下葉肺腺がんのため、長野県佐久市の病院で亡くなったという。六十九歳だった。私は、息が止まりそうになった。一瞬、この感想文はどこに送ったらいいの?これからはどうしたらいいの? と思った。でもしばらくして、最新作が最終作になったのだから、これからはもうないのだということに気が付いた。悲しいというより、全身の力が抜けたような気持だった。 私が初めて藤田さんに会ったのは、二〇〇二年の夏の終わり、軽井沢のトークショウの会場だった。彼の「愛の領分」の直木賞受賞記念に、夫人の小池真理子さんといっしょに、壇上に立っていた。私は夏には決まって軽井沢に旅行していたので、たまたま聴きに行ったのだ。正直言って小池さんの作品は愛読していたが、それまで彼の名前も、作品も知らなかった。 彼が、低い声で語り始めた。「愛の領分」における大人の恋の話に始まって、若き日を過ごしたパリの話、東京から軽井沢に移り住んだ話などなど。彼と同じ大学の出身で、パリも軽井沢も大好きだった私は、たちまち共感を覚え、彼の小説のファンになった。その夏の日の太陽の輝きや、高原の風のさわやかさを、今でも思い出す。 トークショウの後のガーデンパーティーで、私は当時出版社勤務だったから、藤田さんに挨拶をし、名刺を渡した。彼は気さくに応じてくれ、それ以来、新刊が出るたびに寄贈してくれた。だが私は編集者としては、雑誌のインタビューをお願いしたくらいで、彼の役にたてないまま定年を迎えた。 にもかかわらず藤田さんは律儀に新刊書を、私の自宅に送ってくれた。退職した編集者にまで気を使ってくれる作家なんて、少ないだろう。彼は初心を忘れない、心やさしい人だと思った。そのやさしさは、最後まで変わらなかった。彼の気持ちに応えるには、読書感想文を書くことくらいしか、思いつかない。私は著書が届くたび、鳩居堂の便せんに長い感想文を書いて送り続けた。彼は私の感想文に対して、そのつど返事はなかったが、年賀状に必ず「拙著を読んでいただき、感謝しています」といった言葉を書き添えてくれた。年賀状は、小池さんと連名だったが、毎年、元旦に届いた。当初は作家と編集者として、そのあとは一読者としてのそんなおつきあいが、二十年近くも続いたのである。 藤田さんは一九五〇年、福井市生れ。早稲田大学中退後、渡仏。エール・フランス勤務ののち帰国し、一九八六年「野望のラビリンス」で作家デビュー。その後、「鋼鉄の騎士」で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞特別賞、「求愛」で島清恋愛文学賞、「愛の領分」で直木賞、「大雪物語」で吉川英治文学賞を受賞など、精力的に執筆活動を続けてきた。 私は退職後、小説の勉強を始めた。学生時代、小説家になりたかったが、出版社に就職し、その夢は永いこと中断していた。定年になって、遅ればせながら夢よもう一度と思った。いつか大人の恋物語を書きたいと、パソコンに向かっていた。 そして二〇一五年、「さばえ近松文学賞~恋話」に応募したところ、私の「夢の夢こそ」が、思いがけなく最高賞の「近松賞」を受賞できたのだ。鯖江の漆器職人と、東京の小料理屋の女主人との切ない恋物語だった。 審査員に、運よく福井出身の藤田さんが加わっていた。福井新聞には、私の作品とともに「今回は特に、文章、構成にこだわって選考に臨みました。その点、『夢の夢こそ』は合格点をあたえられる作品でした。おおむね他の審査員の点も高く、近松賞に相応しいものだと思います」との彼の講評も掲載された。それこそ、夢のような思いだった。 彼が「書く人」としての私を最初に認めてくれたおかげか、その後、最高賞ではなかったが、二、三の文学賞を受賞できた。今度は私がその掲載本を、彼に送る番だった。彼はそのたび、お祝いと励ましの手紙を送ってくれた。 二〇一八年の六月、藤田さんから、「ここ数年働きすぎたのでゆっくりしようと思っています。書き下ろしを中心に、好きな時に好きな物を書くようにする。その決断がやっとつきました」という手紙が届いた。驚いたが、この手紙が彼の最後の手紙になるとは思いもしなかった。そのころ、彼は肺がんを告知され、一年半に及ぶ苦しい闘病生活を余儀なくされたことを、亡くなった後で知った。 思えば私が在職中、がんで長期入院して、やっと職場復帰できたとき、突然、社のデスクに電話があった。あの低い声で「藤田です。元気になってよかったね」と。感激した。でも私は今回、彼が病気だったことさえ知らなかった。知っていたとしても何もできなかっただろうが。 それ以降、新刊は出なかったし、手紙も来なかった。今年は欠かさず届いた年賀状もなかった。私は一抹の不安にかられたが、休筆中だから仕方ないと、自らそれを打ち消していた。でもその不安が、的中してしまったのだ。 今、私の手元にあるのは、藤田さんの四十冊に及ぶ分厚い著書、十七枚の年賀状、そして封書の手紙とはがきが数通。もう著書も手紙も、一冊も一通も増えることはない。そう思うと、私は涙が抑えられなかった。 藤田さんは、私の第二の人生に光を当ててくれた。そして背中をぐいぐい押してくれた。彼が最初に認めてくれた「書く人」への道、まだまだ足を踏み出したばかりだが、これからもよそ見しないでその道を歩き続けたいと思っている。