吉沢久子先生のほうろう鍋
2019年04月05日
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桜が咲き始めた頃、生活評論家の吉沢久子先生の訃報を新聞で読んだ。享年百一歳とのこと。我が家から、地下鉄で一駅のところにお住まいだったのに、定年以降、お訪ねすることもなくなっていた。テレビや週刊誌を賑わすような有名人ではなかったけれど、私たち世代には忘れ難い先生のお一人だった。 先生は、文化学院を卒業後、速記者を経て、文芸評論家の故古谷綱武氏の秘書となり、結婚。古谷氏の仕事の手助けをし、姑のお世話をする傍ら、家事をはじめ生活全般について幅広く活躍されていた。 私は、入社早々、雑誌「主婦の友」編集部の生活課に配属された。その部署は家事、家計、健康、育児など、生活一般の記事を担当する、いわば婦人誌の根っこともいえる部署だった。私の大学の専攻はフランス文学で、およそ実生活とはかけはなれていた。家でも勉強だけしていればいいと甘やかされてきたので、仕事の上では劣等生だった。だから「主婦の友」生活課が、現在の私の育ての親といってもいいだろう。 当時から毎月のように取材に伺ったのが、吉沢先生だった。そんな私だったから、ほかの先生のところでは失敗もしたが、吉沢先生だけは新人にもよくわかるようにやさしくお話をしてくださり、先生に生活の知恵とはどんなものかということを、一から教えていただいたような気がする。 その頃、吉沢先生のお宅に伺うと、こじんまりしているが、掃除の行き届いた応接間に通される。棚には、美術品でも飾るように、いくつかのお鍋が並んでいた。私が野菜の絵やフランス語が書かれた小さなほうろう鍋にうっとり見とれていると、先生は「気に入ったら、お持ちなさい」と、気軽におっしゃった。記者が取材先でモノをいただくなどもってのほかだったので、私が固辞すると、「お客様が多くて、うちではもう役目が終わったの。使っていただけるなら、私もうれしいいわ」と、さらに勧めて下さるので、鄭重にお礼をいってちょうだいした。当時から一人暮らしだった私は、ボルシチはじめ、シチューにも、煮物にも、愛用した。甥や姪が来ると自慢げにふるまった。でも彼らもそれぞれ家庭を持ち、鍋はキッチンの収納棚に大事にしまってある。 そんな吉沢先生も、夫の古谷氏との死別後は、主に老後の暮らしについて執筆されていた。1997年から2001年まで朝日新聞家庭面に「吉沢久子の老いじたく考」を連載。1967年に始まった新潟日報の連載「家事レポート」は2018年8月まで続いた。関連の書籍も出版されていた。 私は十八年続いた「主婦の友」生活課から、インテリア誌に異動になり、吉沢先生にお目にかかる機会はなくなり、定年を迎えた。そんな時、先生の老後の暮らしについてのエッセイは、心の指針になることがらばかりだった。 一人暮らしになっても、季節の移り変わりを目で耳で楽しんでいること、庭で野菜を育て、それを毎日の料理に取り入れていること、家事は人に頼まず、工夫してできるだけ自分でしていることなどなど。そういう暮らしの知恵を「家事レポート」に書き綴ることが、今のいきがいにもなっているとのことだった。僭越ながら、私がこの「日々」を書き続けているのも、同様の意味合いといえるかもしれない。 改めて吉沢久子先生に、心からお悔み申し上げます。