私の新聞斜め読み
2019年02月05日
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私の朝は、マンションの六階から二階の郵便受けまで新聞をとりに行くことから始まる。そのためには、起きたら、すぐ洗顔、歯磨きして、普段着に着替えなくてはならない。このけじめが、一人暮らしには重要なのだ。よく刑事ドラマなどで、郵便受けに新聞や郵便がたまっているかどうかで、住人の安否を問うが、それは正しい。だから旅行に行くときなどは、前もって電話して新聞を止めてもらっている。 最近、ニュースや番組ガイドはテレビやネットで十分と、新聞をとらない人が増えてきた。朝刊はとっても、夕刊はやめたという人もいる。でも私は、小さい時から新聞で育ってきたから、なんでも文字で確認しないと落ち着かない。子供の頃は、父が朝日新聞と、日本経済新聞をとっていた。私は父より早く新聞を郵便受けからとってきて、連載小説や漫画を読むのが楽しみだった。 一人暮らしになってからは、自分だけで新聞を独り占めできるのがうれしかった。でも当時も今も、決して隅から隅まで目を通すような、模範的読者ではない。斜め読みという程度だが、それでも一日の始めに新聞がないと、淋しい。新聞休刊日は、物足りない気がする。 まず、朝食後に、とりあえず新聞を広げる。朝のテレビを見ながら読むから、一面はほとんど大きな見出しだけ斜め読み。特に気になる記事については、内容も読むけれど。それに続く、経済、国際、金融面も同じ。私は朝日新聞だが、一面の「天声人語」、「折々のことば」などのコラム欄は必ず見る。書き出しの数行でやめることも多いが、昨年の十月には、イチョウのことに触れていて、作家の円地文子やアルベール・カミユの作品まで引用されていた。十二月には、「角川俳句賞」の受賞作が載っていて、十七文字で人生を豊かにする方法が説かれていた。カミユは私の卒論だったし、俳句はいま勉強中。でも私の知らないことが、次々書かれている。このコラムは有名で、毎日その書き写しを日課にしている人もいるようだが、そこまでいかなくても見逃せない。 「スポーツ」面は興味が薄いのでほとんど飛ばし、「生活面」に移る。今は、「患者を生きる」などの連載が続いているが、なかなか興味深い。「ひととき」欄には私も投稿し、採用されたこともある。「料理メモ」もある。 「文化・文芸」面は、だいたい目を通す。記事によっては切り抜くこともある。今も連載小説が載っているが、それは読んでいない。好きな作家は、単行本になってから一気に読むことにしている。漫画は消えた。 「社会」面は斜め読み。ただし、「訃報」欄には必ず目を通す。最近では、樹木希林についで、市原悦子の訃報はショックだった。さらに自分より若い知名人などの訃報を読むと、言葉がない。 最終面は「テレビガイド」。夕食後はパソコンを離れて、気楽なテレビドラマなどを楽しんでいるので、その晩観たい番組をチェックする。見逃していた古い映画が見つかると、夜それを観たり、録画をセットしたりする。 夕刊は、基本8ページしかないから、夕食後、さっと目を通す。よく読むのは、「文化」欄。大竹しのぶや黒木瞳のエッセイなども読む。土曜日、日曜日の特別ページも面白い。 あと新聞には、毎日分厚い広告が挟まれてくる。以前はマンション広告だけは熱心に見ていたが、今は興味がなくなった。スーパーの広告を比較して、安い食品を探すほどの意欲もない。だから、ほとんど読まずに処分する。 斜め読みだって、これだけの多岐に渡る情報量、やっぱりネットだけでは得られないと思う。 というわけで、私の新聞斜め読みは終わるが、もう一点付け加えるなら、新聞が新聞紙になってからの活用法。私は、油の飛び散る料理をするとき、レンジ下のキッチンの床に夕刊を広げる。一枚だと床に浸みるし、朝刊だと厚すぎるから、夕刊がちょうどいい。今のところ、それ以外の活用はしていない。新聞紙は、災害時などには、防寒用はじめ、色々役立ちそうだ。 読み終わり、使い終わった新聞紙と広告は、キッチンに置いてある二つの段ボール箱に分別整理する。一週間ごとにそれぞれひもでしばって、古紙回収日にゴミ置き場に運ぶ。一週間分なら、私でも簡単に運べる。そして翌日は、晴れても降っても新しい新聞が配達される。配達の人の苦労を考えると、ぜいたくなことだと思っている。