「日日是好日」であればよし
2019年01月05日
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新しい年が始まった。今年は、元号が「平成」から、新たな元号に代わる特筆すべき年でもある。私は年賀状に、「日日是好日」という禅語を、今年のモットーにしたいと書いた。文字通りには「毎日毎日が素晴らしい」という意味で、そこから、毎日が良い日となるよう努めるべきだという解釈もある。 この禅語はなんとなく記憶にはあったが、しっかり意識したのは、昨年、大森立嗣監督の同名の映画を観た時からだった。樹木希林の最後の映画として話題になったので、ミーハーの私としては、全国公開されるとすぐ映画館へ走った。森下典子のエッセイ「日日是好日―『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」の映画化で、茶道の先生を演じる樹木希林ほか、お弟子さんとして黒木華、多部未華子が出演していた。 大学時代から二十数年茶道教室に通い続けた「私」が、お茶と共に季節の移ろい、人生における大事なことに気がついていくというストーリー。スクリーンには、旧暦の二十四節気の文字と、庭の景色が次々繰り広げられる。「日日是好日」の書は、お茶のお稽古の部屋の額に掲げられていた。映画としては、淡々と茶道の先生を演じていた樹木希林の存在感に圧倒された。人生最後の作品に値する映画で、樹木希林も女優として思い残すことはなかったと思う。 原作を読みたくなって、森下典子のエッセイを購入した。ほとんどの場合、映画やドラマがどんなに良くても、原作に勝るものはないというのが私の持論。案の定、原作を読み進めるうちに、私は森下典子の言わんとしていること、読者に伝えたいと思っていること、そして素晴らしい文章力に酔ってしまった。予想以上の感動を覚えた。 まず少し長くなるが、「まえがき」の一部を引用してみよう。 「私は『お茶』をただの行儀作法としか思っていなかった。やってもやっても、何をしているのかわからない。茶室のサイクルを、何年も何年も、モヤモヤしながら体で繰り返した。 すると、ある日突然、雨が生ぬるく匂い始めた。『あ、夕立が来る』と、思った。庭木を叩く雨粒が、いままでとはちがう音に聞こえた。その直後、あたりにムウッと土の匂いがたちこめた。それまでは、雨は『空から落ちてくる水』でしかなく、匂いなどなかった。土の匂いもしなかった。ところが季節が、『匂い』や『音』という五感にうったえ始めたのだ。 そして季節は折り重なるようにやってきて、空白というものがなかった。『春夏秋冬』の四季は、古い暦では、二十四に分かれている。けれど、私にとってみれば、お茶に通う毎週毎回がちがう季節だった」 このエッセイは、二〇〇二年に刊行されたが、二〇〇八年に文庫化されてからも、昨年で三十四刷になっている話題作だ。 私自身は、茶道についてはほとんど知識がないが、この一節を読んで、茶道は、私が今勉強している俳句に通じるものがあると共感した。茶道の歴史、深さとは比べられないが、いずれも日本の伝統的な文化から生まれたものだから、根っこに流れる精神は同じと言っても許されるのではないか。 俳句を知る前、私も確かに、雨は雨でしかなく、早くやまないかと願った。ぬかるんだ土は、歩きにくくていやだった。でも俳句を始めて何年か経つうちに、雨の音が聞こえ、土の匂いをかげるようになってきた。そして、やっと俳句を詠むのが楽しくなってきた。 「俳句道」とは言わないが、俳句には「歳時記」というものがある。俳句の季語を、春夏秋冬と新年に分類し、季語ごとに解説と例句を加えた書物で、私たちはこれを調べながら、俳句を詠む。この「歳時記」を手に、私は句会や吟行に、毎月四、五回ほど出席しているが、次第に季節の移り変わりに敏感になり、今まで気にしていなかった空や風,日射し、植物、鳥、虫にも目が行くようになった。目ばかりでなく、五感で感じられるようになってきた。句材は、どこでも見つかる。 とはいっても俳句は簡単には作れず、苦吟することが多い。でも暮らしに俳句があるとないとでは、生き方が大きく変わって来る。茶道もそうだろうが、始まりがあっても、終わりがないのが何よりだと思った。 年を重ねて行けば、今のように気軽に吟行に出かけたり、句会に出席することもままならないかもしれない。病気や怪我も多くなるだろう。でも何があろうと、どこにいようと、きっと俳句は詠める。もちろん、俳句でなくてもいい。お茶でなくてもいい。「日日是好日」をめざし、一日の中に、一つでもいいことを見つけられれば、幸せでいられるのではないだろうか。そう考えて、私はこの禅語を今年の、そしてこれからのモットーにしようと思った。