第四回「藤本義一文学賞」の授賞式に参加して
2018年12月05日
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応募原稿をせっせと書いていたのは、今年の六月ごろ。今回の応募は四回目。一回目のキーワードは「帽子」。二回目は「カメラ」、三回目は「虫」。今回は「夢」だった。前三回とも落選したから、今回もダメだろうと思いつつ、一縷の望みを託してキーボードを叩き続けた。締め切りは、七月二十日。少し早めの七月三日に郵便局に持っていき、投函。あとは運を天に任せ、せめてもと七夕の短冊に願いを書いた。 猛暑が続く九月十三日、思いがけず「藤本義一の書斎」の中田有子さんより「藤本義一の書斎〜gallery〜賞」受賞の電話をいただいた。募集要項には、九月中旬入賞者に通知とあったので、あきらめかけていた矢先だった。単純にうれしかった。五百二十通の応募があったところ、最優秀賞や優秀賞は逃したものの、「ギャラリー賞」をいただけたことは、私にとっては今年一番の大きな出来事だった。 授賞式は十月三十日。義一氏の命日「ありんこ忌」にあたる。会場は大阪の「リーガロイヤルホテル」。受付では藤本義一氏夫人の統紀子さん、長女の中田有子さん,次女の藤本芽子さんらと親しくお話ができ、会場の舞台では統紀子さんから賞状の授与。審査員の先生方からは、直接貴重なアドバイスもいただいた。テーブル席では、最優秀賞の方始め、受賞された方々ともお話を交わした。 授賞式&「ありんこ忌」には、義一氏を偲ぶ来賓の方々も多数列席されていた。後援の堺市市長をはじめ、協賛の方々、協力の方々百名余であふれ、「お帰りなさい」の献杯や献花で、会場は一層盛り上がった。車椅子姿だったが、あの内田裕也氏もお顔をみせていた。大阪にはいまだ義一氏健在の感を深くした一夜でもあった。 藤本義一氏は、1933年、大阪府生まれ。脚本家を経て、小説家に転じ、「鬼の詩」で直木賞受賞。TV 「イレブンPM」で司会者を長く務めた。2012年逝去され、その後、命日には「ありんこ忌」が催されている。 短編小説の募集は多くはないが、それでもどこでもいいというものではない。やっぱり賞の質が高く、審査員のメンバーが充実しているところをめざしたかった。この「藤本義一文学賞」は、氏の意をくみ、審査員長に直木賞作家、難波俊三氏を迎え、審査員は眉村卓氏、林千代氏、田中啓文氏、藤本芽子氏という錚々たるメンバーぞろい。その方々に、「ギャラリー賞」に選んでいただけたのだ。 応募原稿を書く場合、賞の狙い、前回までの受賞作の傾向などを研究してからスタートするのが定石だが、今まで十分それをしたので、今回は自分の書きたいもので、思い切って勝負してみようと覚悟を決めた。 私の小説のテーマは、いつも「愛」。でも今回は、自分の経験してきた出版社時代のシニア誌創刊を舞台にして、その上にフィクションの新人雑誌記者と、定年近いベテランカメラマンを踊らせてみた。そのカメラマンの「夢」を「家出」と設定し、タイトルは「家出志願」。だがカメラマンの妻が病気に倒れ、男の夢はなかなか叶いそうもない。彼を慕う女性記者の「夢」も当然叶わない。二人の切ない思いが書けたらと思った。愛は、簡単に結ばれない方が、余韻もある。最近やっとそんなことが分かって来た。 思えば「小説家」になりたいと思ったのは高校時代。その頃も、大学時代も同人誌に参加して幼い作品を書いていた。だが出版社に入社してからは記事作りに追われ、小説は読むだけ。定年退職してからは、記者仕事とは手を切り、小説、俳句、エッセイなどの修行に励んだ。十年がかりで短編小説集を自費出版、これを冥途の土産にと思ったら、友人達から土産はいくつあってもいいといわれ、それもそうだと考えた。 それから原稿応募を始め、第3回「さばえ近松文学賞~恋話~」、第30回「NHK銀の雫文芸賞」などを受賞し、今回「藤本義一の書斎〜gallery〜賞」までいただけた。今回のキーワード「夢」ではないが、私のようなものでも、一歩一歩、地道に歩いて行けば、時には夢が叶うことがあるのだと、実感できた。 この年になっても、やりたいことがたくさんあるのは、その道半ばで倒れるとしても、幸せなことだと思う。小説、俳句、エッセイ、ホームページ、フェイスブックと、オーバーワーク気味なのを調整することが、これからの私の課題かもしれない。