「待っててね、ゆっこちゃん」
2018年04月05日
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大学仏文科時代から現在まで、五十年以上も友達としておつきあいしてきた幸子さんが、この三月十三日、突然旅立った。年末から体調不良を訴えていたが、それでも忘年会には出席していたし、年明けには病院に行ったというので、そんなに重篤なことになっているとは思いもしなかった。 電話で「病院ではなんて言われたの?」と訊いたら、「なんだか難しい脳の病気らしいの」と言葉を拾い拾い答える。それが彼女との最後の会話になった。一月二十四日に大学病院に入院、検査が続く。ご家族は、のちに「百万人に一人という難病で、今のところ治療法がありません」という、ショッキングな検査結果を告げられたそうだ。 病院にお見舞いに行ったら、彼女は「ごめんね、お話しもできなくて」とでも言いたげに、首をかしげて、いつもの笑顔を見せてくれた。でも会話はできない。その無垢の笑顔にいっそう胸が痛んだ。そうして病気は急速に進行、入院して二カ月もたたないのに合併症で、帰らぬ人となったのだ。 幸子さんとは、大学二年までは隣のクラスだったが、三年生の時、大学闘争が勃発。学生の手で学校封鎖となり、私たち男女交えて十数名は、急に親しくなって、昼間は大学の近くの喫茶店で、夜は居酒屋で、毎日のように語り合い、飲み、ともに過ごした。キュートな彼女はたちまち人気者。その頃から、仲間内では苗字より、ゆっこちゃん、やっこちゃんなどと、名前を呼び合うようになった。その呼び名が、いまだに続いていた。 大学闘争の影響で、就職を希望していた大手出版社は軒並み門戸を閉ざし、私たち二人は小さな出版社にやっと滑り込めた。彼女はまもなく念願のパリに、親戚のベビーシッターとして渡仏。フランス語の学校にも通学した。私は新聞広告で見つけた中堅出版社に転職した。フランスから帰国した彼女を、横浜港に迎えに行ったとき、同行した前の出版社のカメラマンと、まもなく結婚。ふたりの子供が生まれた。かたわら、彼女に私の勤めていた出版社を勧めたら、試験を受け、中途採用になった。また彼女と同じ会社で仕事をすることになったのだ。 ただ私は婦人雑誌やインテリア雑誌、彼女は育児雑誌やシニア雑誌の編集部だったので、仕事内容も、同僚も異なり、定年まで、会社ではつかず離れずの関係が続いていた。時々大学時代の仲間と会うときは、ゆっこちゃんになったけれど。 夫は、彼女の妊娠中は心配で、毎日バスの駅まで迎えにでるくらいの愛妻家だったのに、五十歳で急逝。早朝「夫が、夕べ、死んじゃったの」という、彼女の電話をもらったことを、今でも覚えている。子供たちはまだ高校生と中学生だった。 彼女は、夫の葬儀をすませると、気丈に仕事に打ち込んでいた。当時は、夫のお母様と同居していたが、そのうち自宅介護しなければならなくなった。これもグチ一つこぼさず、仕事と両立させながら、最後を看取った。どんな窮状も、あの小さな体で、すいすい乗り越えていくさまは、立派だと思った。 お互い六十歳の定年を迎えた。私は、とりあえずがんから生還したばかりだったから、おとなしく小説などを書き始めたが、彼女はライター、編集者として仕事を継続。合わせて現役時代につながりができた辻桃子さんの「童子」という俳句結社に入った。俳句が水に合ったのだろう。そこでみるみる頭角をあらわし、「童子賞」を受賞したり、俳誌の副編集長にもなった。 私も誘われて入会。俳句は未知の世界だったが、しだいに興味がわき、句会や吟行を共にしたり、俳誌の編集手伝いをするようになった。今度は「小雪さん」、「やすこさん」と俳号で呼び合う仲に。ここでも、さらりとした関係を続けていた。 大学時代の友人達とは、六十代からまた親密になり、時々、旅行したり、いっしょに食事するようになって、ゆっこちゃんは欠かせないメンバーだった。 そんな彼女が、あまりにも突然、ひとり逝ってしまったのだ。 ご家族から難病の話を聞いた時も、訃報を聞いた時も、信じられない思いだった。お互い、そばにいるのがあまりに自然で、身内のような存在だったから。私は自分の体の一部を失ったような気持で、呆然自失。すぐには涙も出なかった。 お付き合いが長かったから、関係者への連絡はお引き受けしたが、皆さん驚かれ、お通夜には百八十人を超える会葬者が詰めかけ、供花は十三基に及んだ。受付は数人で担当したが、私も懐かしい方々に久し振りでお目にかかった。 告別式当日、私は式の始まる一時間前にひとり会場に行った。彼女の好きだったドリーブの歌劇「花のデュエット」が低く流れ、彼女は棺の中で静かに眼を閉じていた。私は、彼女と過ごした若い頃からのあのこと、このことを一つずつ思い出しながら、棺のそばに座り続けた。もうこれからの物語を、いっしょに綴ることはできないのだと思うと、それまでこらえていた涙が止めどなく頬を流れた。 七十二歳のお別れはあまりに早すぎる。けれど息子さん、娘さんは立派に自立したし、彼女自身は思い残すことがあったのか、なかったのか、今は聞くすべもない。私だっていつどうなるかわからない年齢だ。あの世でまたいっしょに過ごすのも、そんなに先のことではないかもしれない。それまで待っててね、ゆっこちゃん。心からご冥福をお祈りします。