「文学少女」から「文学老女」への道
2017年09月05日
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恥ずかしながら、私は小さい頃から「文学少女」だった。スポーツも音楽も苦手で、本を読むのが唯一の楽しみ。だんだん文章やイラストを描くのも好きになった。将来は、小説を書いてそれに挿絵をつけたい、そんな夢をみていた。 高校生になって、「文学部」というクラブに入り、そこの同人誌に投稿をしていた。昭和三十七年、愛読していた「女学生の友」(小学館)のジュニア短編小説募集に応募したら、「友情」という小説が幸いにも佳作に入選した。その号は入選作がなく、私の作品が挿絵付きで活字になった。うれしかった。当時の小学館の担当編集者に、「これからも小説が書けたら、持っていらっしゃい」とも励まされた。 でもたいしたものも書けないうちに、大学の文学部に進学。「フランス文学研究会」というクラブに入り、またそこの同人誌に投稿をしていた。 当時の私は、大学を卒業したら家を出て自活したかった。 でも小説を書いてごはんが食べられると思うほど、世間知らずでもなかった。だから、せめて小説の世界に近い出版社をめざして、就職活動をした。学生闘争が盛んな時代で、文学関連の出版社は軒並み女子学生には門戸を閉ざしていた。かろうじて入社できたのは、婦人誌が看板雑誌の出版社だった。 志とは少し道が違ったが、私はそこで、記者として編集者として、そのノウハウを叩き込まれた。好きな文章が書けるということで、いつのまにか三十六年が経って、定年まで勤め上げた。その出版社には、中途退社して作家となった中野翠さん、中島京子さんなどもいたが、私は記事と小説を両立できるほどの器量はなかった。勤務中は、ひたすら仕事に専念した。 定年になって「さてこれからどうしようか」と、思った。定年直前にお腹のがんが見つかって、ステージ3-C。手術、入院して、九死に一生を得た頃でもあった。病院の患者仲間は、もうほとんど亡くなっている。せっかく神様にいただいた私の第二の人生。もう読者のために記事を書く仕事は卒業して、これからは自分のために昔夢見た小説を書こうと決心した。「文学老女」の誕生だ。小説の勉強と並行して、俳句の世界にも足を踏み入れてみた。十七文字のなかに、季節から思いまで、全てを注ぎ込む日本伝統の文学。大いに刺激を受け、物の見方が違ってきた。小説と俳句は、両輪のようにも思えてきた。 そして平成二十五年、とうとう短編小説集『繭の部屋』を自費出版した。「女学生の友」に初めて小説が載った時から数えると、なんと五十年以上がたつ。小説を書くためには長すぎる休暇だったが、その間、仕事で学んできたことは、すべてが血となり肉となって小説にいかすことができた。 自費出版した時は、私の第二の人生のいい記念碑になった、冥途の土産ができたと満足していたが、ある人に「冥途の土産は一つでなくてもいいんだよ」といわれて、それもそうだと気が付いた。 それ以降は、まず自分が応募できそうな文学賞を探した。文学賞はいくつもあったが、基本的には出版社が新人作家を発掘するための募集がほとんどだ。しかも単行本になりうるボリュームも求められている。 たださらに調べると、私のような「文学老女」でも、応募できそうな文学賞がないこともなかった。幾つか応募してみた。一次選考、二次選考、最終選考までいった作品もあったが、最終的には全て落選だった。 だが平成二十七年、福井県鯖江市の「さばえ近松文学賞2015~恋話~」に応募した「夢の夢こそ」が、思いがけなく最高賞の「近松賞」を受賞した。応募総数は458編、特別審査員は藤田宜永氏。福井新聞に全文掲載され、現地で授賞式が行われた。小説を再開して、十一年目に初めて結果が出せたのだ。 今回の「銀の雫文芸賞」(NHK厚生文化事業団)に応募した小説「年賀状」は、今年の七月に、最終選考に残ったとの連絡があった。それから一週間、やっぱりだめかとあきらめた頃、「最優秀賞は逃したが、優秀賞二名に入った」との電話をいただいた。応募総数713編。選者は、出久根達郎氏、竹山洋氏、里中満智子氏ほか。十月以降に、三作品と選者評をまとめた小冊子ができる。NHKで授賞式も行われる予定だ。 テーマが、「高齢化社会をどう生きるか?」というものだったので、等身大の作品が無理なく書けたと思う。「年賀状」は、「SNS時代にあっても、高齢者には、今でも年賀状が互いを結びつける大事な絆になっているのではないだろうか」という思いを込めた、地味な作品だった。 独り小説を書いていると、こうして少しずつでも結果が出てくるととても励みになる。これからも「文学老女」としては、健康でいられる限り、老女ならではテーマを探りながら、パソコンを叩き続けたいと思っている。