ラジオ九十年に思うこと
2015年06月01日
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今、私はテレビを見ている時間より、ラジオを聴いている時間のほうがずっと長い。それも、TOKYO・FМオンリーだ。朝は起床時間の七時に合わせて、枕元のラジオをセットしている。「中西哲生のクロノス」が流れると、最近はパッと目が覚めるようになった。 朝食から、外出までは、NHKテレビ。ニュースを見、交通情報や天気予報をチェックし、「朝ドラ」を見る。続けて「あさイチ」はなんとなく見るが、それからはラジオに切り替える。 終日家に居る日は、ラジオをかけっぱなしにしている。掃除や洗濯、料理等の家事をするとき、そして今本業と思っている「書きもの」をするときも、ラジオは欠かせない。一人暮らしだから、無音の中で過ごすのは味気ないし、テレビは「見たいもの」は別として、昼間は目障り、耳障り。毎日、CDをかけるのもおっくうだ。ラジオも耳をすませて聴いているということはなく、ほとんどBGMがわりに流している。でも時に地震や事故など、大切な情報も伝えてくれる。 昼食や夕食時、夜は、ラジオは切って、テレビを見る。テレビドラマは、昔のように熱中できるものはないが、気楽に楽しんでいる。十二時、読書しながら就寝。午前一時五分からの、お年寄りには人気のラジオ、NHKの「深夜便」は、一度も聴いたことがない。その頃は熟睡している。 ただ休息日にしている日曜日は、朝十時からの小川洋子の「メロディアス・ライブラリー」、二時からの山下達郎の「サンデーソングブック」、四時からの福山雅治の「スズキトーキングFM」、六時からの平原綾香の「ヒーリングビーナス」など、トークと音楽が一緒に楽しめる番組は、興味をもって聴くことが多い。耳慣れた週日のパーソナリティーとともに、彼らは、私の日曜日の気楽なお友達だ。 私のドラマ好きは、昭和二十年代のラジオドラマから始まった。昭和二十二年開始の「鐘の鳴る丘」は記憶もかすかだが、二十七年開始の新諸国物語「白鳥の騎士」、「笛吹童子」、「紅孔雀」、「オテナの塔」、「七つの誓い」などは、胸躍らせてラジオの前に座っていたのを覚えている。伝説のラジオドラマ「君の名は」が開始されたのも、この二十七年、子供ながら楽しみにしていたものだ。 白黒テレビの放送開始は、昭和二十八年だが、我が家にテレビが来たのは遅く、三十年代だったと思う。父親がニュースやプロレスを見るのが中心で、子供番組はずっと見せてもらえなかった。私はずっとラジオを聴いていたと思う。 それから、一人暮らしを始めたのが昭和四十五年ころ。テレビを買って、好きなトレンディドラマを見放題。残業があっても、ビデオに録画しておいて欠かさず見た。現役時代は、ラジオを聴く時間はなかった。平成十六年に定年退職し、また私の暮しにラジオが戻ってきたのだ。 この四月末の朝日新聞の「ニュースの本棚」に、「ラジオ九十年」(荻上チキ氏筆)という記事が載っていた。「ラジオは複数の顔を持つ。国民を戦争へと追いやる銃剣。災害時の命綱。そして、日常の中の居場所」と。敗戦時、一歳にもなっていなかった私は、太平洋戦争の始まりも、終戦を告げるラジオ放送も実際には耳にしたことはない。でもその放送は、ドラマの中でくりかえし聞かされ続けてきた。時の政府はラジオによって、国民を統制してきたのだ。 また記憶に新しい東日本大震災の時には、ラジオはまさに命綱としての役割を果たし、ラジオだけを頼りに命を繋いだ人も少なくなかったと思われる。 そして今の私のように、ラジオを日常のパートナーとしている人々がたくさんいるのではないか。今やネット時代と言われているけれど、ラジオがはじまって九十年、まだまだラジオの役割は終わっていないと、私は思う。