もっと幸せにしてやりたかった・・・
2014年02月01日
◎ 昨年十二月二十六日、私の勤め先の大先輩、F女史が亡くなった。八十四歳で、死因は心筋梗塞だった。通夜は二十八日、葬儀は二十九日と、年末の多忙な時期にもかかわらず、六十人以上の人が参列した。 F女史は、私が出版社に入社以来の先輩だった。大学を出たばかりの私は、四十歳そこそこの彼女に一から十まで指導を受けた。原稿の書き方、取材の仕方はもちろん、食堂での箸の上げ下ろしから撮影時の荷物の運び方まで、婦人記者としての心得をたたきこまれた。「どうしてそこまで言われなくてはいけないの?」と、私はトイレで一人泣いた。 数年すると、きびしい指導のおかげで、私も記者としてなんとか独り立ちし、F女史の片腕とも呼ばれるようになった。そうなると彼女は、私に心を許し、自分のプライベートな打ち明け話までするようになった。 当時、F女史は、苦しい社内恋愛をしていた。彼女にも、四歳年上の彼にも家庭があり、彼女はさっさと離婚して愛を貫こうとしたが、彼は子供がいたこともあり、永年、妻と別れられなかった。 F女史が初心を貫き彼と結婚できたのは、彼が社をやめて編集プロダクションを始め、彼女も定年を迎えた、六十代初めだった。披露宴には私も出席した。彼女のやや誇らしげで、でも恥じらいののぞく笑顔を初めて見た。それからは、私も仕事が忙しく、彼女とは年賀状だけのおつきあいになった。 でも二人の幸せを、病魔が襲った。数年後、彼は肺がんに倒れ、入院生活。一命はとり止めたが、なかなか退院できなかった。合わせて彼女にも、パーキンソン病の兆しが現れた。彼の病床に一日中付き添って、帰ろうとしない。パーキンソン病の初期のうつ病の症状が見られるようになったのだ。 彼が、ようやく回復して退院したころから、彼女のパーキンソン病の症状は顕著になり、手足がふるえ、筋肉が強張る、動作が遅くなるなど、徐々に進行した。出掛けたとき、街路で転倒したりすることも、しばしばだった。 マンションには、いたるところに手すりをつけて彼女がころばないように注意し、二人はいつも助け合って暮らしていた。さらに彼は、腹部動脈瘤が発見されたが、このときもなんとか助かった。でも彼女は、彼が自分より先に死ぬとは考えてもいなかった。彼が自分を守ってくれる、唯一の人だと信じ切っていたのだ。 数年前から、彼女は自宅でほとんど寝たきりの暮しになったが、食事は自分でとっていた。それも二、三年前から、食事をスプーンで口に運ばないと食べないようになった。ヘルパーは雇ったものの、彼女の面倒は彼が自分の手で何もかもやった。 昨年九月、久々に、会社のOB会が開催された。その昔は美人記者として、雑誌にも取り上げられたF女史。今は痩せ細り、容色も衰えてはいたが、それでも出席したいとのことだった。彼はもう口もきけない、歩けない彼女を車椅子に乗せて、その会に出席した。会場では、二人の同僚、後輩たちが次々彼女に声をかけ、握手した。家へ戻ってから、彼女はとても興奮し、喜んでいたのが、彼にはよくわかったという。 葬儀の後、私は改めてご自宅にお線香を上げに伺った。彼と、直接話すのは初めてだった。「いつまで、お二人は会話が通じたのですか?」という私の質問に、彼は迷うことなく、「最後まで」と答えた。声が出なくとも、手が動かなくても、彼女は最後まで彼と語り続けたのだろう。思えば彼女にとっては、愛した人と添い遂げ、看病され、看取られて、最高に幸せな一生だったと言えるのではないだろうか。私がそう言うと、彼は「ここ十年くらいは、女房の介護が生きがいだった。もっと幸せにしてやりたかった…」と、しみじみもらした。私は次の言葉が出なかった。彼ももう八十八歳だった。 彼の提案で、三月に、「F女史を偲ぶ会」が持たれる。「はなやかな記者生活をおくった彼女も、最後は自分と二人きりの孤独な晩年だった。せめて皆さんで賑やかに偲んでやってほしい」ということだった。 私は、F女史の恋は彼女の一途な思いで実ったと思っていたが、そうではなかったのだ。彼のほうにも強い思いがあったればこそ、この恋は成就したということに、私は今さらながら気付かされた。