「駿河台お別れ会」を終えて
2013年10月1日
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夏のはじめに、主婦の友社が、神田駿河台から移転すると言う話を聞いた。「まさか」と思って会社に確認したら、九月末に江戸川橋に移転することが決まったという。私は喪失感というか、寂寥感というか、心痛む思いがした。 私が大学を卒業して、昭和四十三年に入社し、三十六年間勤め上げ、定年退職をした出版社主婦の友社は、大正五年創業。大正六年、「家庭の幸福と婦人の地位の向上」を理念とした婦人雑誌「主婦の友」を創刊した。大正十四年には、建築家ヴォーリズ氏の設計による社屋が、駿河台一丁目に設立された。だが昭和六十年には、一丁目の老朽化した本社跡地に、建築家磯崎新氏により、カザルスホールを核とする御茶ノ水スクエアが建設され、出版社主婦の友社は駿河台二丁目の新社屋に移転した。そこをまた去るのだ。営々と灯し続けた駿河台の灯が消えるのだ。すでに平成二十年に、看板雑誌「主婦の友」は、休刊になっていた。 私はもちろんだが、人生の大半を駿河台で過ごした先輩諸氏の声もあって、「主婦の友OBによる駿河台お別れ会」を開催することになった。私は進んで、呼びかけ人の末席に加わった。 過去のOB会の名簿に、ここ何年かに社を去った方々の名簿も加えて、五百五十名余の名簿が整った。ご案内の往復はがきは、夫婦は一通にした。四十組以上が職場結婚という、微笑ましい事実も判明した。結婚しても、そのまま働き続けられたという、男女差別のない職場でもあった。結局、投函したはがきは五百通強となった。 OB会は社屋内で行うのが恒例だったが、社屋は老朽化し、東日本大震災の影響も受けて、ホールは冷房が効かず、洗面所からは濁り水が出るような惨状だった。これでは移転もやむをえないと思えた。だから、会場は社屋近くの明治大学の百名規模のパーティー会場に変更。過去の例から、出席者は九十名くらいと推測した。 だが予想に反して、ご案内の往復はがきには、大先輩から若手まで、続々出席の返事が舞い込んだ。それは締め切りを過ぎても途切れなかった。百二十五名となった。きっと、皆、「最後の駿河台の記念に」と、思ったのだろう。私たちは、会場近くのレストランを第二会場として準備した。やむをえず欠席という連絡が二百二十一名、訃報連絡が十三名あった。 九月七日の当日は、さしもの酷暑も治まり、高曇りで、夕立も降らず、それこそパーティー日和だった。交差点に、目印を持った人が立ち、OBの方々を誘導したが、皆、勝手知ったる駿河台、迷うことなく、懐かしいあの人、この人が続々集まった。 それぞれ、在社時代に比べれば、もちろん年を重ねていたが、顔を見間違うほどではない。六十代、七十代はもちろん、八十代、九十代の方まで加わって、「お別れ会」は盛り上がった。人生の大半を過ごしたそれぞれの駿河台の日々が、蘇ってくるのだろう。私にとっても、精一杯力を尽くし、一番輝いていた時代だった。あの日、会場に集まったOBの方々は、皆同じ思いだったことだろう。でも皆の当時と変わらぬ、生き生きとした姿に接して、私は過去が吹っ切れ、今日があることも確認できた。 二時間は瞬く間に過ぎ去った。皆は、同期で飲みに行く人、お茶しに行く人など、三々五々、会場を後にした。全員明るかった。会場ではそれぞれの古き良き時代を、仲間同士で、存分になつかしんだと言う顔だった。じめじめした「お別れ会」にならなくてよかった。 駿河台での最後のOB会になったが、私は多少なりとも、そのお手伝いができてよかったと思う。江戸川橋に移転した主婦の友社の現役の方々には、新しい土地で、新しい出版の灯を、あかあかといつまでも灯してほしいと思うばかりだ。