作家・藤田宜永さんと私
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私が初めて藤田宜永さんにお目にかかったのは、今から十年以上前、夏の終わりの軽井沢だった。藤田さんは軽井沢在住。その年、「愛の領分」で第百二十五回の直木賞を受賞されたばかりで、夫人の小池真理子さんといっしょに、トークショウの壇上に立たれていた。 正直言って小池さんの作品は愛読していたが、それまで夫君のお名前も、作品も知らなかった。藤田さんが第一声を発したとき、私はドキリとした。その低い声が、大学時代の友人の声にあまりに似ていたから。 藤田さんは早稲田大学仏文学科を中退して、パリに渡り、エールフランス勤務後、昭和六十一年「野望のラビリンス」で文壇デビュー。 平成七年「鋼鉄の騎士」で日本推理作家協会賞、そして十三年、優れた心理描写で熟年の愛を描いた「愛の領分」で直木賞を受賞された。でも細く長い指で、額にかかる髪を掻き揚げながら、熱く作品を語る姿が、友人の姿と重なった。やはり仏文中退で、作家をめざしてパリに渡り、早逝した彼の夢を、実現した男がそこにいるような錯覚に囚われたのだ。 トークショウの後のガーデンパーティーで、私は当時出版社勤務だったから、ご夫妻に挨拶し、雑誌のインタビューをお願いしたり、いつか本を執筆していただきたいと依頼した。出版は実現しないまま、私は定年退職した。それでも藤田さんは律儀に新刊書が出ると、私にまで寄贈してくださる。私は主に実用書担当だったから、お付き合いした作家は少ない。でも退職した編集者まで大切にしてくださる作家なんて、少ないだろう。初心を忘れない、心やさしい方なのだと思う。私は、毎回必ずファンレターのような長い感想文をお送りしている。 もちろん、藤田さんの過去の作品は全部読んだ。初期の作品は冒険ものが多いが、「愛の領分」以来の大人の恋愛小説は私を惹きつけてやまない。中でも、三年前の書き下ろし「老猿」は、力作だ。彼の作品の中で、一番好きだと言える。 「老猿」は冬の軽井沢をあますことなく描いた作品で、そこに暮らす、元ホテルマンの主人公中里と老猿、そして春恋との恋物語が、ドラマティックに展開されている。元ホテルマンの中里が狂言回しになっているが、本当の主人公は老猿。若い頃パリに暮らし、小説を書き、一度新人賞をとってから、書けなくなり、苦しみ抜く姿が、藤田さんの負の分身とも言えるかもしれない。だから切なさが迫ってくる。 中里には、老猿ほどの迫力はないが、仕事も家庭も失い、軽井沢の丘の上でひっそり暮らしている姿が、目に浮かぶ。軽井沢の小さいホテルに再就職するラストは好感が持てた。 恋人に、春恋を登場させることによって、舞台が軽井沢から中国まで広がった。春恋が、若い才能あふれる彫刻家というのもいい。藤田さんの作品に登場する女性は、ガラス工芸家とか染織家とか、自立した芸術家がほとんどだが、だからこそ恋にも積極的に関われるのだろう。ここ一、二年は、還暦探偵ものなどで、男のペーソスを巧みに描いている。 藤田さんは、一年に一回だけれど、日本近代文学館主催の「夏の文学講座」で、東京で講演をなさる。お互い髪は白くなったけれど、その時控室に伺ってご挨拶するのが、今は私の大きな楽しみだ。